2007年08月10日

不可視の風景

ぼんやりずっと考えていたこと。
監督と風景のこと。

カウリスマキの『街のあかり』で映し出されるヘルシンキはひどく魅力的な色彩を放っている。しかし、それはおそらくヘルシンキだからではなく、カウリスマキの映画だからなんだと知るのには、実際のヘルシンキを見る必要はなく、『コントラクト・キラー』でカウリスマキが映し出すロンドンを観れば良い。
そこがロンドンであっても、映し出されるのはカウリスマキの色。室内はともかく、なぜ風景にカウリスマキ印が付いてしまうんだろう。

同じことが、キアロスタミが『明日へのチケット』で映し出したイタリアの車窓にも言える。映し出された瞬間に、そこにイランの風景の上に見慣れたはずのキアロスタミ印が現れる。

そしてホウ・シャオシェン。『珈琲時候』で映し出されている物たちは紛れもなく見慣れた東京のはずなのに、台湾の風景の上にあるはずのホウ・シャオシェンの印がそこにはあり、まるでパラレルワールドに入り込んでしまったようなめまいを感じる。
そしてそれは、この上もなく幸せな体験でもあった。
侯監督の視線を通して見慣れた、そしてそれほど好きではない町が、ひどく魅力的に感じられる。

もちろんこうした感覚は、その他の監督作の風景の中にも常にそれぞれの監督の印が打ち込まれているからで、たまたまそれが「違う場所」で顕著になるに過ぎない。
間違いなくそこに存在する物を撮っているが、そこへ行っても同じ風景を私は発見できないだろう。

自身がカメラを回しているわけでもない監督たちが、まぎれもない「監督の風景」を撮ってしまうのはどういうことなんだろう。
もちろんそれは風景の切り取り方や編集によるものなのだろうけれど、それにしても不思議な体験に思えてしまうし、そういった「監督たちの風景」にひどく惹きつけられてしまう。

2007年07月12日

トリュフォーでした

トリュフォー祭り本日終了。
祭りと言っても3週間で13本だからまあ、ゆるりと祭り。とはいえその間、山田宏一著『トリュフォー ある映画的人生』を少しずつ読んでいたので生活の周辺に常にトリュフォーが漂っていたような3週間。
トリュフォー特集@シネマヴェーラ14本。観た本数13本。13本…。1本だけ観逃しました。ちえぇ。『恋のエチュード』。未見のトリュフォー作品たちと共にいつかきっと、きっとスクリーンで。


終電車
大人は判ってくれない
家庭
私のように美しい娘
柔らかい肌
夜霧の恋人たち
あこがれ
二十歳の恋
隣の女
日曜日が待ち遠しい!
逃げ去る恋
ピアニストを撃て
突然炎のごとく


どれもを愛おしく感じる。
不思議な感じだ。
『終電車』で突き刺さった感覚は、気のせいじゃなかった。
まずはそんな一言で。

dada.jpg
祭り始めのだーさん→祭り終わりのだーさん w/やまもも

2007年07月09日

のりうつる脚愛

トリュフォー祭りが続いております。
トリュフォーを見続けると、必然的にジャン=ピエール・レオーに惚れることになるのですが、それとは別に脚線美が欲しくなりますね。まあ、もうそれはそれは美しい脚たちが繰り返し繰り返し、ですもの。

かつてビデオで観ていたことすらすっかり忘れていた『日曜日が待ち遠しい!』を、あ、こりゃ観たわ、とはっきりと確認できたのは、トラティニャンが身を隠している地下室の天窓のガラス越しに行き交う歩行者の、まあ当然のことながらハイヒールを履いた女性の、脚をぼんやり眺めているのを見て、ファニー・アルダンがいたずらっこのような微笑みを浮かべながら帰りがけにその天窓の前を往復してみせる、軽妙なシーンによってでした。ちなみに、もちろんトリュフォーは外を往復してみせたアルダンのあとに、部屋の中に残されている男の様子を映すような野暮ったいことはしていません。
結局この映画ではっきりと「観たことがある」と思い出すことができたのが、そのシーンと、ラストのカメラレンズを蹴って遊ぶ子供達の脚のシーンなのだから、映画ファンに激怒されてもしょうがないし、映画を愛する才能がないのだなあとつくづく思ってしまいもするのだけれど、反省したりしょぼくれたりするよりも、それでも「脚」が主役となる2つのシーンだけはきっちり覚えていた、ということに笑ってしまうのでした。
かつてビデオで観た頃はトリュフォーが脚フェチだと知っていたかな、知らなかったかな、それすら覚えていない。
ともあれ、トリュフォー映画に現れる脚はそれだけ素晴らしいんだ!と無反省に言っておこう。

2007年07月02日

エドワード・ヤン

訃報は波のようにやってくるね。
とてもショックです。
早いよ。

エドワード・ヤン監督逝去


追記メモ:
ヤン監督がどういう存在だったのかを教えてくれる人たち。

MINER LEAGUE
革命の朝の屑拾い日記
ハナログ

2007年06月24日

トリュフォー始まりました

土曜日にシネマヴェーラのトリュフォー特集で『終電車』と『大人は判ってくれない』を観る。初スクリーントリュフォー。
どちらも切なかったり厳しい状況だったりはするものの別段泣くようなところでも無いシーンで、ふいに涙が溢れてとまどう。つくづく、映画で泣く要因は「物語」じゃねえ、と実感。
一体なにがどうして涙が出てくるのかなど私に説明できるわけもないから放棄するけれど、何かが突き刺さる。画面上のセリフや動きに見えてもいないものが、いや、スクリーンには映っているけれど私には説明できないものが突き刺さってくる。こういう書き方は精神論みたいで嫌だけど精神論じゃないよ。映画そのものとは関係ない知識とか精神性とか同時代の何かしらとか、そういった要因とは無縁に(そもそも知らないし)、ただ目から耳から入ってくるものに対して体が反応しているという。本当はきちんと分析しようと思えばできるもののはずなんだけれど。ドワネルの最後の顔になんであんなに惹きつけられるのか、カトリーヌ・ドヌーヴが手を取る最後の瞬間がどうしてあんなに幸福感に満ちてしまうのかとか、ああ、いやもっと細かい様々なシーン。説明しようと思えば出来るのだろうけど、思いつく言葉を並べてみても真実からは遠のくばかりだ。
一体これはなんなんだろう。
ずっとずっと後になって、ああ、あれが恋に堕ちた瞬間だったねと理解するような、感覚。理屈と打算に満ちているはずなのにそれを説明することが出来ない。
ただ言えるのは、スクリーンから降りかかってきたものそのものに揺さぶられてしまう体験は映画がもたらしてくれる幸せのひとつであるということだ。そしてもちろん、こうした映画に出会えるのも幸せなことだ。楽しい、面白いと言える映画が必ずしも、その感情のもう一枚向こうで得体の知れない幸福をもたらしてくれるわけでもない。あ、まあ得体が知れなくなっちゃうのは私の能力不足なだけだと思うんですが。

むー。
結局ほとんど何も言葉に出来ないというのが結論か。

ともかく、初日の2本でそんな突き刺さり方をされてしまっては、トリュフォーを(ほとんど)知らずに過ごしてきたという怠惰を幸運にすり替えて特集に通うしかない。
そんなわけで日曜は『私のような美しい娘』と『家庭』の楽しい2本。
さて、あと何本観られるだろうかね。

2007年06月01日

観に行く映画

【観に行くつもり映画】
 7/2更新

街のあかり
ショート・バス
天然コケッコー
牡牛座 レーニンの肖像
サッド・ヴァケイション
長江哀歌

フランソワ・トリュフォー@ヴェーラ



観逃した↓
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2007年05月24日

カンペイタ

久しぶりのDVDにて、友人お薦めのトビー・フーパー『トゥール・ボックス・マーダー』とジョン・カーペンター『ゴースト・オブ・マーズ』を続けて観て、まあどっちも面白くてたまりません。
『トゥール・ボックス〜』はなんと言ってもノーCGで醸し出される質感がステキ。死体の山を踏んで歩くあの感じ、ざくざくぴゅーぴゅーのあの痛さと音と気持ち悪さはやっぱりモノがその場にあってこそでしょう。
でも、私にとってより衝撃的だったのは『ゴースト・オブ・マーズ』のやりたい放題。
細かい設定はもう大体でいいし、引きの絵の合成も大体でいいし、と言わんばかりの強引さで、それに対して人の首が飛ぶ瞬間の、なんと美しい合成ぶり。取り憑かれた人たち1人ひとりのディテールの細かさ。やりたいところにだけきちんと全力投球しているサマがすばらしい。カーペンター作品をきちんと観たのはこれが初めてなので余計にびっくりしたのかも。
基地と駅を往復するサマを友人は「西部劇!」と言っていたけど、私がまず思い出したのは『ドーン・オブ・ザ・デッド』のショッピングセンター→銃販売店のシーン。あ、あれもそもそもが西部劇なのか。
これはゾンビ好きにはもちろん薦めたいし、メタル好きにも薦めたい。そしてバケットヘッドを婿にしたいあの子にも。DVDに特典映像として入っている、スタジオでのサントラ作成の様子が妙にかっこいいが、ここにバケットヘッドの姿も。撮影入ったからだろうけど、きちんといつものあの格好でスタジオの隅で超絶テクを披露する姿はなんともいじらしい。

そんなわけでカーペンターを気に入ったので続けて『エスケープフロムLA』。
「ツナミー」!『ゴースト〜』がおとなしく見えるほどのやりたい放題!背景が書き割り〜!すげえー。これだけやりたい放題に暴走しているのに、これだけ詰め込んでるのに、ちゃんと面白いってどういうことだ。カート・ラッセルにいくら見栄を切られてもかっこよくないし笑えるけど、それでいいです。「アメリカンスピリット」の〆もいいし。
あの書き割りがスクリーンではどう見えるのか観てみたい。
次の新作はいつでしょう。
ともあれ、次のカーペンターは何にしようかな、と。

そうそう、「カーペンター」はちゃんと言えるのに、頭に「ジョン」を付けてフルネームを言おうとすると「ジョン・カンペータ」になってしまうのは私だけですか?舌が回らない。

2007年05月14日

春男ちゃん

行くことは出来なかった、溝口健二没後50年を記念して行われた国際シンポジウムの記録本『国際シンポジウム 溝口健二』を読んでしまったので、まあ実際にはまだ読んでいる最中なのだけれど、どうしたって溝口を観たくなってしまうのは当然の成り行きで、この際DVDでもいいからと未見作と近所のレンタル屋に置いてあるものという兼ね合いの中から『赤線地帯』をまず1本。

さきほど観終えたばかりの『赤線地帯』の感想など書けるわけはないのだが(やっぱりスクリーンで観ておくんだった!という悔恨は別として)、『噂の女』でも『近松物語』でも気になったことが改めて『赤線地帯』でも確認されたし、この本を読んだことでそのことが余計に際立ってしまったのが、田中春男という存在。
改めて、なんなんでしょうこの人は。

心理的に追いつめられる展開の中で、ダメ男であれ小悪党であれ、出てきただけでその場の雰囲気を軽くしてしまう春男ちゃん。
俳優を追いつめるという溝口監督の演出からあくまでも自由に見えてしまうのは私だけでしょうか。本の中では、溝口監督が『近松物語』において、役者として自分の型を崩さない長谷川一夫に負けたのか、それが結局監督が望んでいたものだったのかというような論点が出てきますが、春男ちゃんはなんだかそういう論点の対象になりえない、ちょっとよく分からないところにふわんと浮遊しているようにみえる。溝口という磁場の中で、他の人たちが足をつけているところとは別のところに足をつけているというか、阿部氏の言い方を借りれば、この人は「逃げる」どころか寄ってきてしまっているように見えるし。

使う役者の選別にも妥協しないという溝口監督の作品に春男ちゃんが出演し続けたのは、いわゆる「巨匠」としての世間の評価ではない、「本来」の姿である「節操のない」「軽薄ともいえる」「本来の〈活動屋〉」としての溝口監督が表出させたいものの一部を、春男ちゃんが担っていたということなのかもしれないなーと、ものすごい勝手な妄想。
シンポジウムでは一度も名前の出なかった春男ちゃんだけれど、既成の溝口作品への評価をフラットにしたところから語りだそうとして繰り出される言葉がいちいち、私の中では映画の中で春男ちゃんがいる立ち位置、醸し出す雰囲気に結びついてしまう。
「名作だけど決して重くはない、軽い」という溝口映画の中で、田中春男という存在はもしかしてとても重要なんじゃないか、いや、今考えている以上に、などと思ってしまった。

これって自明のことなんですか?
それとも私が春男ちゃんを好きすぎるだけなんでしょうか。

それにしても『赤線地帯』の春男ちゃんもすごいぞ。
どう見てもやりたい放題でしょう、あれは。

2007年02月16日

マキノ7

とうとう『次郎長三国志』ラスト1本のマキノ7。
しかしプログラムの関係上「三国志」の前に『次郎長遊侠伝』を1本。こちらは三国志のあとに撮られたもので、石松=森繁、法印=春男ちゃん、しかし次郎長=大政、って頭こんがらがるってば。しかも本当にシリーズごとに時系列が違う。ここまでいろんな設定を見せられると、メジャーな講談や史実はどうだったのか気になる。

というわけでまずは『次郎長遊侠伝 秋葉の火祭り』
「三国志」では大政の、河津清三郎の笑顔のエロさに代表される余裕感というか、どうにも底の読めない懐の深さ、大物さ加減が存分に発揮されている。「三国志」が「次郎長一家」の物語なら、「遊侠伝」はまさしく「次郎長」の物語。また、「三国志」ではお蝶の存在のためか、次郎長がずいぶんとストイックな人間に描かれていたんだなと、これと見比べて感じた。「遊侠伝」での次郎長はもっとずっと楽天的で駆け出しの三下らしさが出ているのだけど、その脳天気さが余計に秘められた大物さを醸し出しているのがわくわくする。お風呂に浸かってのんきに歌を歌っている様は最高。
と、脇の春男法印は立派な山伏衆に囲まれてやっぱり1人で汚いし、森繁石松は堂に入った「ども」で、よ、待ってました!という勢い。
北原三枝の、汚い格好で引き立つ美しさと気っぷのよさ、それにかいま見える子供らしいかわいらしさ。あんな女ならみんな惚れるて。
秋葉の火祭りシーン、前振りの奉納の舞やらなにやらがクライマックスへ向かう緊迫感の中の静になっていて、単なる祭りの紹介シーンのようになってしまいそうなほど長々と映されるそれらの舞も一生懸命見てしまった。その舞の後ろに映される群衆の動きを見たかったからでもあるんだけど、本来なら退屈しそうなシーンなのにこんなふうに面白く観られる場合もあるんだな。

『次郎長三国志』に夢中になっている人間に違うテイストの次郎長ものをぶつけてきて、これほどあっさりと面白がらせてしまうなんてニクイ。


とはいえ待っていました『次郎長三国志 第9部』
第8部で終わるはずだった「三国志」に急遽続編製作命令が出て作られ、それにも関わらず第10部が何らかの理由で完成されなかったため、えらく中途半端に終わるということは知っていた第9部。
始まりからしていきなりテイストが違う。暗い。
一家の登場シーンなどは、いつのまにこのシリーズは山田風太郎の忍法ものになってしまったのだと思うような不思議な音の効果を使っているし、なんだか不安になってしまうものの、農民達に謝りに行くシーンはさすがの「三国志」。円陣組んでのワッショイワッショイ+すっとしたぎゃあ、でほっと一息。合間に入る立ち回りの呼吸が絶妙で、化け物のように強い集団がどれほどの強い気持ちで謝罪をしているのか、農民が納得するのも当然といった流れ。この和解のシーンはおみごと。
全体に暗い雰囲気だけど、お蝶の死んじゃう第6部からあとの流れを思えば、9部に繋がる第10部が存在していないっていうのが何とも口惜しい。予告(は存在するのだ)だけで妄想10部を組み立てる。

と、終わってしまった『三国志』。ちえぇっ。
こんなに駆け足で観るのもったいなかったなあ。可能ならもっと1本ずつ待ち焦がれて観たかった。

シネマヴェーラの「館主のひとりごと(2/21)」で書かれていた事に納得。
この次郎長シリーズは、観ている側のたいがいが次郎長ものを知っているという時代背景に即して描かれていて、エピソードのとびっぷりが激しい。ゆえに、「知らない」私は後追いでそうかそうかと納得していき、当時の人とは違う見方になる。それでもそれがこの映画を面白くないものにすることはない。本当におもしろいものはいつでもおもしろいんだ!と簡単に言いきるのも気持ち良いが、改めてそれってすごいよな、と感心もしてみる。

2007年02月12日

コンプリート18

P1000320.JPG
マキノ祭り終了〜
マキノ7・8・9をまだ書いていないが、ともあれ本日めでたくシネマヴェーラマキノ特集全18本観終わった。こういう特集ものをコンプリートしたの初めてだ。無意味と分かっていつつも達成感。よく頑張りました。
と、こういうことするとその他のものを観る暇がなくなる。新作を全然観てない。別に名画座オタクを目指しているわけではないのでバランス取らなければ。溜まってるなあ。

おまけ
会社→映画の道中に久しぶりに吉祥寺の「よしの家」でご飯。野菜炒めご飯(要するに定食)を頼んだら2人前ほどの野菜炒めにどんぶり飯出てきた。しかし、ご飯の炊き加減が絶妙で楽勝完食してしまったよ。うまい。600円。吉祥寺駅近くにしてこの価格は貴重。おじいとおばあが元気なうちに通おう。

2007年02月08日

マキノ6

さらに祭る。
土日に続き月曜日に駆け込み1本『昨日消えた男』
長屋推理劇という形を取った小品コメディといった感じ。軽く、わははと笑って楽しめる。登場人物達ののんきさに飲み込まれてのんきな客の出来上がり。小品といえど絶品。

長谷川一夫の立ち回りはさすがの素晴らしさ。いつもいつも、どうしてマキノの立ち回りはあんなにリズミカルなんだ。
各登場人物が分かりやすいキャラクターと決まり文句を持つことで、少ない登場でも記憶に残る。
話の本筋を進める脇でわーわー騒いで合いの手入れて、その間合いが全体のリズムを作る。駕篭屋2人の「なるほどねえ」「あ、まったくだ」のしつこいくらいの応酬も、その絶妙な間合いによってワンパターンを免れジングルとして成立する。さらにその合いの手が他の人間(目明かし八五郎)にも波及していくことでまたリズムが拡がっていくというか、こう、演奏で楽器が増えていって音が豊かになっていくような感じ。

そして何より、山田五十鈴の存在がこの映画をさらに絶品にする。
この映画の中で五十鈴ちゃんは本当に可愛らしい「バカな女」なのだが、何度も見せる「イーッだ」のしかっめつらに毎度毎度やたらとドキリとさせられた。どうしてこんなにどきりとするんだろうと考えた結果、自分なりの結論。
五十鈴ちゃんはいわゆる美人という顔ともちょっと違うのだけど、整ったきれいな顔をしている。この映画では特にその感じが強くて、磨き上げられた能面か陶磁器のような、つるりとした、一切の無駄な肉のない硬質な美しさを見せているのだけど、その顔がふいにぎゅっとゆがめられ、面の下から生きた顔が現れる。いや、面が命を得た瞬間を観てしまったような動揺をこちらに与える。画面は必ずむっとした瞬間の無表情の五十鈴ちゃんを正面から捉え、その次の瞬間にその面が動き出す様を見せる。その移行があまりにも美しいのでどっきりするのかも知れない。
こんなに見事なイーッはそうそう見られるものじゃないだろうな。

いずれにしてもこんなに可愛らしい「バカ=女」の五十鈴ちゃんを堪能できるだけでもこの映画を観て良かった。

顔と言えば、高峰秀子の泣く直前にくちびるをゆがめる様が、多分小津で観た原節子のそれとそっくりで、『阿片戦争』での姉妹役に今さらながら妙に納得。

2007年02月06日

マキノ5

そして祭り。
前日のマキノ祭り後、久しぶりの人々と両国にて大人ちゃんこ、さらにその後、別の友人が催したロックDJイベントに行くも体力の限界で途中退場。タクシで帰る大人。そして翌日というかその日の午後に『三国志7・8部』と『阿片戦争』。ま、この詰め込み方が大人じゃないか。
1ヶ月に一度も飲みに行かなかったりするのになぜかこの日は予定が被りまくった。先約がなければないで爆音ナイトに行ったのだけど…

『7部』
冒頭の鏡餅を巡るシーンで今の次郎長一家を取り巻く状況を説明してしまうその見事さは一体何なんだ。
本編ラストといった趣で、シリーズの登場人物勢揃い。その揃いっぷりがまた嬉しい。それぞれをきちんと懐かしがらせる、個性のにじみ出たシーンの数々。その一方で、喜代蔵少年とその子分達という新しいキャラクターが次郎長一家の成長を際立たせる。
喜代蔵とお仲さんのシーンは危険な香りに満ちている。
悲しさ辛さを内に秘めたとはいえ、一家の芸達者ぶり、突き抜けたバカは爽快。いや、悲しさもバカさも突き抜けているからこその迷いの無さが痛快。
フグになんまいだー。
フグ毒に当たった演技のあまりのばからしさこそが真骨頂。
あまりにも生き生きとした映画だ。

『第8部』
もちろん石松の死を外して次郎長ものは成り立たないのだろうけど、三国志余話というか、三国志石松編といった感じの8部。
ここはとにかく森繁石松の魅力に酔えばいいんだろう。見ている側は最後に石松が死ぬことを分かりきっていながら、この男に惚れてしまわずにはいられない。酷だなあ。
旅立ちでの女房衆とのやりとりも遊郭での女郎達とのやりとりも同じように明るさに満ちていて、いかに石松がその人柄で人々を魅了してしまうかが明瞭。マキノ監督の手ほどきを受けたのだろう森繁の猿踊りの見事さったらないし。
そして、それらと同じ明るさで描かれるラストシーンの夕顔の幸せに満ちた笑顔で泣かずにいられるわけがない。そりゃあ涙も吹き出るわ。
志村喬の穏やかさと怖さを併せ持った身受山鎌太郎が見事。次郎長が目指すべき理想の「親分」として描かれているのかも。

『阿片戦争』
さて、疲れもたまったところに一大スペクタクル史劇。珍妙な1品。
ま、コスプレ大会。中国人役は普通の発音なのにイギリス人役が時々英語訛りのイントネーションになるのが笑える。
疲れのせいで全体の退屈さの中からマキノらしさを探し出す気力がなく、どうにもこうにも、さすがのマキノでもこういった戦時下大作ものは面白くなくなってしまうんだなという印象。妙にセリフが堅苦しくてリズムが取れない。
とはいえ、でかすぎる時計とか、原節子と河津清三郎の恋の語らいとか、観て損はない。ベストコンディションで観ていればもっと良いところ発見できたかな。

2007年02月05日

マキノ4

マキノ祭りはまだ続く。
3日は5・6部と『続清水港』。
5部は『阿波の踊子』とカップリングで観たものの、どうせ観られるならといそいそと。祭りの高揚感と幸福感。そりゃ「夫婦」もできるわと納得の熱気、上気した空気が画面に溢れる。一転、やっぱりあの目つぶし袋の数はすごい。援軍と共にわーっと巻き返す、そのスピードの爽快さはなんなんでしょう。
そして泣きの6部。切ないエピソードのオンパレード。その中にあって、ほうっと空気が緩むような越路吹雪の魅力。なんだろう、大物ってこういうふうにせっぱ詰まっても余裕を感じさせるものだよなと、底知れなさを感じてしまう。長刀持ちながら酔っぱらってゆらゆら揺れるその仕草もすごく魅力的。
法印のでたらめお経もお目見えで見応えたっぷり。何本観たんだか分からなくなってしまうくらいだ。それでいて詰め込んでいるという印象にはならない。スピードとリズム。

お仲さんもお園さんも、酔いの揺れがたまらなく色っぽい。

『続清水港』は軽快な次郎長ものコメディ。
現代劇部分のセットのあまりの陳腐さと千恵蔵のスーツ姿の格好悪さに愕然とするものの、時代劇部分になってしまえばそこはそれ、危うさなし。「三国志」の名脇役である張子の虎さんの虎造氏が大活躍でうれしい。寿司くいねえ酒飲みねえ江戸っ子だってね。神田の生まれよ。を堪能。旨い。
おおーと感心してしまったのは、大根役者の集まりだと罵倒される舞台稽古の斬り合いのぐだぐださ。下手な演出だなあと思わずにはいられないシーンを映画の冒頭に持ってくるのもすごいが、その下手さのおかげで、時代劇部分の「実際の」斬り合いのシーンのスピードが際立つ。「舞台」では竹が邪魔でしょうがなかったのに、「実際」では竹があってこその立ち回り。この差異の鮮やかさ。
しかし、千恵蔵石松は男前すぎるなー。

この回は村松利史氏を発見。
見てるだけで面白い顔できょろきょろするのやめてください。これまた堪能させていただきました。

村松氏で脱線しちゃうけどオフィス ワン・ツゥ・スリーってすごいね。このメンツおいしすぎる。で、安斎さんがビジュアル担当だよね?

2007年01月30日

ちょび反省

ある評論家(ではないのか、映画史家?)がDVDで『ミュンヘン』を観て評論を書いたらしい話しを聞き、そこにやむを得ない事情があることはさておき、そして評論の内容もさておき、まず思ったのは「DVDで評論を書くんじゃねえ」ということだ。
で、一拍置いて思い出すのは、つい最近自分が書いた『オールドボーイ』の感想。そこにプロ(金が発生している)と素人との違いはあるにしても、誉めるならまだしも、しょぼいDVD環境で観た映画にダメをだすのはいかがなものか、と思ってしまったのね。
まあDVDで観て、映画館に行かなくて良かった〜と胸をなで下ろすほどの駄作もあるにせよ、基本的にスクリーンで観なくちゃダメだよ。
DVDで良いと思える映画を観たら「スクリーンで観たい!」と思い、
ダメだと思う作品を観たら「スクリーンで観たらどうだっただろう」と思う。
そういう人に私はなりたい。

2007年01月29日

マキノ3日目

今日は2本。
平日しかやらない「阿波の踊子」をどうしても観たくて会社を脱走、疑似脱兎。もちろんカップリングの「次郎長三国志 第5部」も堪能。
「阿波の踊子」、なんといっても阿波踊りの群衆。CGじゃありません。CGじゃできません。大変なことになってます。話しには聞いていた(読んでいた)けど、この数半端無い。しかも役者以外は地元阿波の手練れ達。生き生きと入り乱れる、巨大なうねり。今見られる阿波踊りとはまるで別物のようだな。
お子ちゃま高峰秀子の、窓の桟をすっと撫でた指先の爪がぬらりと光って気になっちゃった。お子ちゃまと著しく相容れない一瞬の指先。しかし、それを語る上で必要な『秋日和』の原節子の爪を私はスクリーンで観ていないのだ。ちえっ。
仇討ちが斬新。
「弥次喜多道中」「やくざ囃子」「阿波の踊子」、どれもお面が効いているし、お面を付けている時間が長い。しかも主役たちが。それで成立するんだなあ。
「次郎長三国志 第5部」、これまた踊る阿呆だらけ。あるいは幾百の目つぶし、幾百の敵。数知れない大部屋俳優達がいない今となっては決して作れないものを観ているのだ。すごいよ、喧嘩シーン。人情笑い愛情ちゃんばら。何がどうなって78分の中にあれらのものが詰まっているのか皆目見当がつきませぬ。放棄。久慈あさみがまた色っぽいし。豚松と次郎長親分のラブシーンもすごいな、あれ。
幸福感に包まれた2本。
ルビッチを観たあとの幸福感か、ルノアールを観たあとの幸福感か、どちらに近いかな。間違いないのは、そこに幸福感があるということだ。

2007年01月28日

題名重複

『天国は待ってくれる』
『許されざるもの』
という新作映画がそれぞれ間もなく公開されるようですが、私の中で『天国〜』といえばルビッチの「HEAVEN CAN WAIT」、『許されざるもの』ときたら『許されざる者』、つまりイーストウッドの「UNFORGIVEN」なわけで、どちらも置き換えようのない名作ということを考えると、よくもこの題名(邦題)を付けたものだと。リメイクとか同じ題材のものはもとより、題名などが重複するのは今までにもあることなのだろうし、単独で聞けばあらあら、と失笑するだけだっただろうけど、2作続けて思い入れのある映画と同じ題名のものが出てくると気になっちゃう。
まあ、イジワルを言えば、その題名に恥ずかしくないだけの映画なんだろうな!と凄みたくなるわけです。

マキノ2日目

というわけで今日も3本いそいそと。
まずは次郎長3・4部。
森繁久弥の「バカ」っぷりのすばらしさ。久慈あさみの、香り立つという言葉が当てはまりすぎの色気。次郎長一家の牢屋コント。
たまりません。
第4編からは春男ちゃん同様大好きな加東大介も登場。むちむちの動ける小太りが大活躍。さらには結構大変なはずのラストの喧嘩シーンはわっしょいわっしょいで〆。
この「ばか」としか言えない明るさが、むなしく響く笑いではなく、影のない幸福感を伴っているのはなんなんでしょう。粋、粋ってこういうことか。
続いて「彌次喜多道中記」。
これか、馬の足。
「鴛鴦歌合戦」ほどの破壊力はないものの、え、無理って何が?と涼しい顔して通してしまうし、通ってしまう。描かれているのは脳天気な話しなのだが、使われているエキストラの数はものすごい。捕り物のシーンでの迫力はさすがだし。ものすごいことを脳天気な設定の中でさらりとやられると、もうわくわくしてしまうよ。

あと今日はやっと、初めて“シネフィル”西島秀俊氏を確認。ステキだ。こっそり見つめさせていただきました。ごちそう。

2007年01月27日

マキノ初日!

マキノ特集初日行ってきました。
「次郎長三国志」の1・2部を観るのは初めてだったので、各キャラクターの登場の仕方にいちいちワクワク。中でもやっぱり鬼吉の「子分にしてちょーよ」は強烈!さらに愛しの春男ちゃんのなし崩しの仲間入りも何とも期待通りの「それっぽさ」で、うへへへへと笑みがこぼれる。
つくづく思ったのは、エキストラやセットの「贅沢」さで、「大作」ではなく普通の「娯楽作」でこういった映画をひょいっと作れてしまう環境があったこの時代は、やっぱり映画にとって幸せな時代だったんだろうなと思ってしまう。
「やくざ囃子」も緩急のテンポがなんとも絶妙に配されて、オペレッタでなくともマキノのリズムを存分に味わえる楽しさ。
時間軸のすっとばしの豪快さもマキノだと納得してしまうのは映画に流れるリズムゆえかな。

蓮實・山根+岡田茉莉子トークショーも面白かった。
茉莉子さんの女優オーラは相変わらず。人を圧倒するすごさ。
そして、
「ゴダールを観ていない人間にマキノは分からないし、マキノを観ていない人間にゴダールは分からない」

すげえ。自分がこの言葉を理解しているとは思えないけど全力で同意したい。映画を愛したい人間としては。
ゴダール、もっと観なくっちゃ。

ともあれ、明日も3本立てだ。

2007年01月07日

2006観た映画

去年スクリーンで観た映画90本(短編含)
内、新作28本

私としてはかなり観た方だけど、少ない。
観ようと思ってた新作を相当観落としてます。

大抵の新作よりも面白い旧作をスクリーンで多く観てしまったせいで(そういった事態に慣れていないだけに)新作がかすんでしまった気がします。
それでも☆をつけた3本はやっぱり強い。

☆◎○△×。順番は観た順です。

○:鉄コン筋クリート
△:エドワード・サイード OUT OF PLACE
○:悪魔とダニエル・ジョンストン
☆:硫黄島からの手紙
○:イカとクジラ
○:トゥモロー・ワールド
☆:父親たちの星条旗
×:ナチョ・リブレ
△:パビリオン山椒魚
○:ツヒノスミカ
○:百年恋歌
◎:リトルミスサンシャイン
○:サムサッカー
○:ゆれる
◎:太陽
◎:スーパーマン・リターンズ
◎:LOFT
○:撮られっぱなし天国
○:映画史特別編 選ばれた瞬間
○:キングス&クイーン
○:ブロークン・フラワーズ
☆:メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬
◎:ラストデイズ
○:Touch the sound
◎:ミュンヘン
◎:エリ、エリ、レマ サバクタニ
◎:ホテル・ルワンダ
○:愛より強い旅
○:東京ゾンビ

枠外
(☆:ランド・オブ・プレンティ)
ビデオでしか観ていないので一覧に入れられないけれど、ハチドリのシーンは私の中に突き刺さったままだった。ひょっとすると一番なのかもしれない。

自分の未熟さのゆえに評価が低くなっている映画があることを自覚しなければならないのはなんともつらい。

極私的な事件としては、小津安二郎を初めてスクリーンで観たこと。「お早う」の赤の異様さにやっと初めて「スクリーン」と「テレビ」の違いを痛感。これはいくら口で言っても通じないのだけれど、その質感のあまりの違いに「今まで小津など観ていなかった」と反省しないわけにはいかなかった。

それまで私にとって「映画館で観ること」は何かしら理由を付け(迫力とか、音とか、観客という社会との対比とか)義務化するものだったけれど、それで初めてある種の映画は「スクリーンでしか観ることができない」のだと分かったので、映画を観るには映画館へ、というのがやっと「当然」のことになった。

あと、渋谷のシネマヴェーラがオープンした事も大きい。ここには1年で10回位しか行かなかったけれど、この居心地の良い新しい名画座の存在が「スクリーンで観なくちゃ」という気合いを持続させてくれたし、自ら進んで観ないような映画に出会うという機会も与えてくれた。

新文芸座にもフィルムセンターにもVOW映画祭にも、お世話になりました。

本来、何も考えずに映画を観る性質ですが、旧作を観れば観るほど、あるいは信頼する(というほど読んでいないので、何となくお気に入りのと言った方が正しい)評論家や映画感想を楽しみにする人たちの新作評価の視点が理解できないたびに、すげえおもしれえひゃっほーといった語彙だけでは映画は観られないというジレンマに悶々とした1年でもありました。
何が観えたのかを語るのは良いが、それ以前に観る力も鍛えないと。

※なぜかラストデイズが抜けていたので修正しました(1/9)


2006観た映画一覧

2006年12月17日

旗と手紙

昨日『硫黄島からの手紙』を観た衝撃からはまだ立ち直っていないのでした。いや時間が経つほど『父親たちの星条旗』との記憶が交差して渦を巻き、渦を巻くほどにますますイーストウッドという存在の恐ろしさを感じて、その興奮からふいに涙がこぼれてしまったりするのだ。あの人はいったい何なのだろう。

映画メモ。
「悪魔とダニエル・ジョンストン」がバウスにてレイトショー。ライズXという劇場がどうも苦手なので、boidが関わっている音楽もの映画ならバウスでやるだろうと勝手に当て込んでライズには観に行かなかったのでした。なかなかバウスの予定表に載らなかったので読みがはずれたと思っていたけど、当たった。ふふふ。今度はちゃんと観に行くべし。

と、その裏で「明日へのチケット」が終わっちゃったよ。観逃した。つい後回しにしていた。ちえ。オレのばか。

あともう1つ。
年明け爆音第1弾(?)はピクシーズ「ラウド・クァイエット・ラウド」ですよ!2月ですよ!
前売りの缶バッヂが欲しいけど、通常前売より800円も高いでやんの。迷う。

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