2008年09月10日

『緑の光線』

かつてビデオで100回観直しても見えなかった、まあ100回は当然嘘だけど5〜6回は視点を変えたり角度を変えたり部屋の明るさを変えたりして見ようとしたけど見えなかった、そりゃあ磁気テープ上に複写できていないものはどう頑張ったって見えないのだが、つまりスクリーン以外では見ることの出来ない『緑の光線』のラストのあの緑の光線を遂に見た。気のせいかと思うようなほんの一瞬。もうそれだけで幸せだ。

上映権がきれるため、今回の特集はエリック・ロメール日本最終上映と銘打たれている。でも、それならば「緑の光線」はもう日本から永遠に失われてしまうんだろうか?
うんにゃ。きっと誰かがまた上映してくれると信じている。しかもニュープリントで!

2007年02月25日

『マリー・アントワネット』

これはようするに「ソフィア・コッポラ」を観に行く映画なのだろうか。ソフィアによるソフィアの模倣?ソフィアの提示する「おしゃれ」にどれだけはまれるかが、この映画をどれだけ楽しめるかに掛かっている気がする。
私はといえば、ソフィアの映画は苦手気味というか食わず嫌いにほぼ等しい。その視点から。

全体の印象が中途半端。
決して悪くはないけれど、だからどうした、という感じなのだな。80sの音楽を使うならそれで突っ走って欲しかったし、使い方としても音が小さいのが不満だし、コンバースをチラ映しするのは悪ノリの部類に入るか、もっと言えば、「現代」として描いたマリー・アントワネットなのだということの押しつけ、あるいは直接的な何かを見せなければという不安の表れにも見えて、まあ、早く言えば引いてしまう。
音楽に乗って次々とデザートや靴の映像が切り替わる、というのもなにやら今さら…という気持ちになってしまって、魅惑されないままにシーンは過ぎていく。

といいつつも、問題は提示される中身ではない。
魅惑されない原因がなんなのか、それは自分の中でははっきりしている。光だ。
どうしてこれほど頑なに全編のっぺりとした面白みのない白っぽい明かりなのだろう。森の中も、夜の寝室も、舞踏会も、マリーが「これほど美しい景色は見たことがない」と言う朝日のシーンまでも。
そのせいで、それなりに金をかけたと思われるせっかくの豪華なドレスや調度品、数々のデザート、シャンパン、ワイン、長い廊下、広い庭、そういったのものの魅力をまるで感じらない。たしかにドレスのフォルムやディテールは良く観察することはでき、すごいなあ、と感心することはできるが、そのひだが生み出すはずの影や光の動きになどまるで無頓着。
この光のために、この映画は「現代の少女のように描かれたマリー・アントワネット」ではなく「マリー・アントワネットのコスプレをした現代劇」になってしまっていやしないか?
もしほんの少しでもエリック・ロメールの操るような光があれば、ともったいなくてしょうがない。
そうでなくても、ローアングルで野の花の中を白いドレスを着たマリーが歩いていく、光に満ちた場面は室内や夜の闇があればこそ引き立つはずのものだったじゃないだろうか。
朝日ももっと美しく感じられたんじゃないだろうか。
闇と光のささやかさの徹底的な不足。
あれだけのドレスがありながら…もったいないおばけがでるぞ。

歴史劇を作ろうとしていないのだからと言われてしまえば、はあ、そうですか、としか言いようがないが、ヴェルサイユに押しかけた群衆の怒声が少なすぎやしないか。あの音じゃあ本当に映されている前5列くらいしか人がいない感じじゃないか。


魅了されたものといえばキルスティン・ダンストの胸元。
不満のため息をつくために吸い込んだ息で、締めつけられた胸の上、チェスト部分がぶわっとふくらむ、そのふくらみ方があんまり見事なので、何度繰り返されてもその度にぎょっとし、それと同時にその動きの美しさに目が釘付けになった。後半はそれが無くなって残念。
水色がともかくかわいい、好みの水色。特にオーストリアから輿入れする際の馬車内部の水色ワールドはすてき。

ソフィアのセンスを嫌ってるわけでは多分、ない。でもその見せ方がどうもダメ。そういうことらしい。いたるところでもったいないお化けが噴出しまくりました。

ルイ16世役が、時系列に乗っ取った変化を見事に見せているなと。地味にだけど、妙にいい味。
しかしこの顔どこかで…と思って調べてみたら『天才マックスの世界』のあいつかよ!おー。こいつ天才。て、これまたコッポラ一族かい。知らなかった。この映画に何人コッポラ一族関係してんの?そういやニコラスケイジに顔似てるけど血の繋がりはあるのか?誰かコッポラ一族の系譜図を作って下さい。
ウェスさんの次回作に出ているという嬉しいニュースを得られた。早く観たい。

映画に戻って。最初の「お引き渡し」のヌードは少女的体型が非常に美しいラインを作っていましたが、あのヌードは吹き替えなんでしょうか。その後のキルスティンの大人ヌードとはラインが違うような。

2006年11月30日

『真夏の夜のジャズ』

フェスです。
ニューポートジャズフェスティバル。
ジャズのことはまるで知らない。でもフェスならちょっとは知ってる。だからこの映画は私にとってジャズ映画ではなくフェス映画。こんなものを冬に見せられてむずむずしたこの気持ちを一体何で発散したらいいんだ!と、心を騒がす。

観客をほとんど映さない『STOP MAKING SENSE』、ステージよりも観客や会場周辺を映している方が多い『真夏の夜のジャズ』。それぞれのアプローチの違いはまさしく「ライブを観る」ことと「フェスに行く」ことの違いをそのまま体現している。それはどちらが上とかじゃなくて、どこに重点を置くかの違い。この2本を続けて観るというのは、そのことがものすごくクリアになる体験だった。この2本をカップリング上映するなんて、やっぱりユーロとバウスはステキだ。

朝霧JAMやフジロックを追体験するときに何が一番心を揺さぶるかといえば、「そこで楽しんでいる人たち」を写し取った写真達。だからこの映画の中で映し出される、ステキ音を傍らに寝る人飲む人読む人食べる人そして聴く人踊る人、その好き勝手具合、たとえそれが50年前でも変わらずそれこそフェスなんだなあと思わされるし、こんな素敵なフェス映画があることに嬉しくなってしまう。フェスってライブをたくさん見ること?と言う人にはだまってこの映画を差し出せばいいのだよ。それにしても、フェスの土壌という点においてはアメリカの豊かさにはかなわないなあ。

会場のイスが屋外なのに木のイスでかわいい。開場前の、芝生に並ぶイスたちを俯瞰した映像がステキでワクワクする。

まさしく老若男女+ちびっこが楽しんでいるフェス。その幅広さ、理想的だ。今もこんな雰囲気が味わえるのならジャズフェスに行ってみたいものだ。

まあ、一番記憶に残ってしまったのは「非常に厳しい顔でチョコアイスバーを食べる女子」なのだけどね。獲物を狙っているのか、狙っている捕獲者を威嚇しているのか、スクリーンでもそうそう見られない厳しさだ。監督もそう思ったのだろう、比較的長々と厳しい顔は映し出される。

音楽のことに触れてないのは単にジャズに疎いからで、もちろん触れたくないからではない。音楽だってステキじゃなければ、こんなふうにフェスの楽しさを存分に伝えてくれる映画にはならない。

2006年01月15日

『モンキー・ビジネス』1952

■ホークス!どたばた喜劇、スクリューボールコメディの雄。笑う以上に呆気にとられてしまうコメディの制作者。うかうかと笑っている間に画面ではもう次の展開が始まっていて置いていかれてしまうほど。顔に笑顔を浮かべたまま表情を硬直させて呆気にとられるしか対処の術はないようです。そしてその瞬間、それを面白いと思っているのかどうかすらがあいまい。

■若返り薬を研究している研究所の実験用チンパンがいたずらでつくった薬がビンゴ!それを給水機の中に入れちゃって、何も知らない研究者達が飲んじゃってまあたいへん、というお話。
■見た目はそのままなのに精神が若返って、大学生になって隣にマリリン・モンローを乗せて車を暴走させたり、小学生になって妻役のジンジャー・ロジャースとペンキのかけ合いをしたり、近所の子供とインディアンごっこをする初老のいい男ケイリー・グラント。まったくこの人は何物なんだか。自由に年齢を行き来しすぎ。インディアンごっこ(という言葉は今どう置き換えるべき?ネイティブアメリカンごっこ?あ、この遊び自体をやっちゃダメか)の時の目つきは狂気の目つきにも見えて、子供の本気さ加減が出ているのが不思議。今で言うとジョニー・デップに通じるのかなあ、何でもやっちゃうし、ふとこの人は「本気」なのではないかとこちらを不安にさせる感覚。
■一方のジンジャー・ロジャースもキュートと言えなくはないものの、若返った彼女はどうにも粗野でわめきすぎという印象。グラントとは対照的に大人のままの彼女が一番きれい。始めのほうのシーン、ペチコートにエプロンの肉付きの良い背中が熟女感満点でどきどき。
■マリリン・モンローの色気過多が完全に(しかし上品に)ネタにされていて、「まだほんの子供だよ」というセリフが示すとおり、胸をとがらせて色気たっぷりなくせに小娘が一生懸命頑張っているといった感じがかえって可愛らしい。好意をよせる博士には相手もされないという設定が余計そう見せているのかも。

■研究所で重役や社長が水のかけ合いやって遊んでるシーンは本気で楽しそう。はじけすぎ。
■あかちゃんのぷりぷりお尻が何ともかわいい。
■チンパンの演技が完璧すぎ。

■ホークスコメディの中では私的には『ヒズ・ガール・フライデー』や『赤ちゃん教育』のほうが好きだけど、観てから10日以上経つのに思い返せば1つ1つのシーンがこれだけ出てくるのだから、いまだに消化し切れていないだけなのかも。なにしろ呆気にとられることしかできないのだから、常に。

2005年09月05日

『もだえ苦しむ活字中毒者 地獄の味噌蔵/よろこびの渦巻』

■TVの深夜枠以外ではありえないシュールな黒沢清監督の2作品。それぞれ1990と1992年の作品というが、85年に『ドレミファ娘??』、同じ92年に『地獄の警備員』があると思うと、とにかくこの期間の黒沢さんは、大勢の人に分かってもらえなくて良いですからっ!という体制だったのではないかと疑う。両作品とも偶然TVで見てしまったら、なんじゃこりゃワカランと思いつつも何かが心に引っかかって消化不良を起こし深夜ドラマに対するトラウマを植え付けられていたかもしれない。ましてやこの頃といえばちょうど椎名誠もたくさん読んでいた高校時代にかぶるわけで、ついうっかり観てしまうということがなくて本当によかったと、胸をなで下ろす次第。
■『活字??』大杉蓮の怪演についてはもうコメントのしようがありません。同じ黒沢作品常連の諏訪太朗氏はずっと禿げてるのにはげっぷりに変化がないようなのが気になります。いつも一癖ある脇役がいい味ですが、今回は主役としてがっつり全体の味をまとめてる。にしてもへんな話。
■『よろこび??』これまたへんなの。突然スパナで殴る/殴られる、のテンポは黒沢作品らしい。ためらいのない唐突な暴力は何度観てもその両者の要素の相容れ無さに笑いを引き起こされる。それってなんなんだろう。それにしても彼は20数年殴られ続けているのですか?なにゆえに?おまけに最後は意味もなく刺されてるし。横移動撮影と全員が音痴という変な〆の歌の流れは笑う以外に対処のしようがありません。
■どっちの原作も読んでいると思ったんだけど全然思い出せない。
■ここから考えると、『回路』で妙な棒読みセリフで観る人間を半笑いにさせる武田真治こそが黒沢作品出演者の正統な後継者なのか、と思えなくもなく、複雑な気持ち。さらに『ココロ、オドル』はこの流れにつらなるものなのか。『よろこび』で土手を列になって行進するのと似た光景が『ココロ』にもあったな。そして『活字』で意味もなくべたべたと貼られた色とりどりの付箋紙は『ドレミファ??』の浪人生の部屋からの継承?そういえば『活字』の冒頭でゴミ捨て場にゴミ袋が大量に置かれていたのに、しかもその前を2人が走るのに、誰もそのゴミ袋に突っ込まなかったのが意外だ。黒沢作品なのに。て、黒沢マニア的な発言しか出てこないのでこの辺にしよう。

■万人に薦められる作品ではないけれど、なんじゃこりゃ、と言いたい人、でもあっさり切り捨てることもできないモヤモヤ感を味わいたい人などには非常にオススメいたします。

2005年07月01日

『右側に気をつけろ』1987(爆音)

■ゴダールをですね、素直におもしろいと思える日が私にはやってくるのでしょうか?好きなのだが、そこには複雑な気持ちが入り乱れる。つまるところ、自分がバカであることを意識させられずにはいられない、コンプレックスを掻き立てられずにはいられない。かといって、映画に対して「難しい」という形容詞を用いて、あたかもそこに含まれているあらゆる意味を理解しようとしたが理解しきれなかった(あるいはほぼ理解できた)というようなふりをするのもいやだ。映画なんて、観て面白いか面白くないかだ。興奮させられるか興奮させられないかだ。で、だからゴダールには困る。興奮させられるのにそこに何が映し出されているのかまるで分からないのだ。そう、「難しい」云々は負け惜しみだ。難しいかどうかすらわかんねーのだ。分からないところが分からないのだ。ま、要するに勉強不足。映画を観るための勉強を怠っているツケ。なんだか面白いと思うものを理解したいならやっぱり勉強しなければならないのだ。一つの音楽を楽しむためにそのルーツとなる音楽も掘り下げていくように。

■にしても、おもしろかった。わけわからなくても面白いって言ってもいいよね?へたなうんちくも感想も並べられない変わりにただ興奮させられる何かがそこに映し出されていた、と書いておきます。本当は引用されているあらゆる言葉が表すものも分かりたくはあるのだけど、もう、スラプスティック極めた一品として、面白い。
■色彩、音、横顔、幾度も転がる缶、まっすぐに伸びた腕の指さす先になにがある?地上に一つの場所を。

2005年06月06日

『ミリオンダラー・ベイビー』

■いやあ、ヒラリー・スワンクおっとこまえ??!
…という感想でとんずらしてしまいたくなる。すさまじい。て、なにが?よくわからない。ただ、すごい映画。
■とにかく硬質。観ていて苦しい。『ミスティック・リバー』もそうだったけど、客に付け入る隙を与えない。踊れる音楽がイコールいい音楽なわけじゃない。棒立ちして圧倒されるしかない音があるのと一緒。観終わった後に途方に暮れ、なにかすごいものを観たと思うしかない、あの感覚。
■硬質って言っても絶妙な間や会話で笑わせてくれるんですけど。
■この映画を観て泣いたけれど、それは「泣ける」を売りにしている映画のような気持ち良さをもたらしてくれる安易な同調の涙ではあり得ない。絶対的な隔絶。絶望を目の当たりにして対処できない故の涙。あるいはただ飲み込まれるままの涙。

■監督としてのイーストウッド、どれほどの強靱な肉体と精神を持っていたらこんな映画が撮れるんだ、すさまじい。
■役者としてのイーストウッド、あの、唇をふるわせ肩をふるわせ、弱さと迷いをさらけ出す肉体。あの瞬間のイーストウッドだけでもこの映画の存在価値あり。

■「なんて言ったらいいかわからないけど、観れて良かった」と思う映画。一度で処理などできないのです。


追記:
■今回はドーナツじゃないものを至福の表情で食べてたなあ。もしかしてただの甘い物好きか、イーストウッド?
■エンドロールに入った瞬間に席を立つ人が結構居たのにおどろいた。あれ観終わってすぐに動けないよ。きっと4回目位なんだ、あの人達は。そうだと思いたい。

2005年04月16日

『マシニスト』

■観てから一月以上経っているので記憶も薄れがちだが、どうでもいい映画だった。
■いわゆる謎解き系のストーリー、のはずなのだが、途中からネタバレバレだし、かといって罪の意識から来る精神障害を描きたいのかと思えばその象徴としての幻覚人格の登場という、今さら恥ずかしくて誰も使えないようなネタを臆面もなく登場させる。あまりに陳腐、寄せ集め、捻らなすぎなストーリー構成は観ている方が恥ずかしい。
■この場合の「陳腐」は『アバウト・シュミット』の感想で使った、映画といったエンターテイメントに登場させるにはあまりにも日常的な、自嘲気味に陳腐と形容したくなるようなごくありきたりの出来事、をあえて連ねながら映画として成立させることに感心した様を、あえて「陳腐」という言葉を使って表そうとした、その「陳腐」ではなく、エンターテイメントとして考え出そうとはしたものの使い古された過去のエンターテイメントの中から断片を寄せ集めて適当に形にしてしまった安っぽさ、の「陳腐」です。
■これは配給側の宣伝が巧かったね。予告制作者との勝負に負けた。

■それでも監督が「アンダーソン」ズの一人なので意味もなく擁護をしようと思うなら、遊園地のエログロアトラクションのエログロっぷりがきっちりガッツリしていたのには笑ったし、何度も現れる、空港のビルを下から見上げるショットちょっと好きだった。この監督の作品を他に観たことはないのだが、冗長さが無いのがこの映画の救いか。

■にしても、脚本がちゃちすぎる。

2005年04月03日

『真夜中の弥次さん喜多さん』

■まゆげが一番臭い。

■休日昼の渋谷で300m先まで届く声で叫びたい。おもしれえええええ!
■本気で3分に1回爆笑。

■これから観る人たちがたくさんいると思うのでネタバレになることは書きませんが、とにかく最高級。観に行け、いや行ってくれ。

■長瀬とクドカン脚本の相性のよさはTVドラマで実証済みであるものの、改めて良い。そして、私にとっては未知数だった七之助、こいつが良い。さすがの歌舞伎役者というべきか、動きのキレと女装時の動きのしなやかさが素晴らしくてケレン味がないのが素晴らしい。
■キャストに関する予備知識をあまり入れていかなかったせいもあって、後から後から次々と現れる端役達の破壊力にぶちのめされっぱなし。無駄に豪華ゲストがいっぱい、などという種類のものとはまるで違う必然に脱帽。
■阿部サダヲはもはや名人芸。

■しりあがりさんのあの原作を映画化するなんて、いくらクドカンでもむりむりむり、と思っていたオレ、さようなら。クドカン、本当にすごいよ。アレをなあ、ここまで作り上げられるなんて。
■原作の、悪夢に類するでたらめに次ぐでたらめを、まさか実写で観ることになるとはなあ。結構金の掛かった映画だとは思うのだが、その金の掛け方に無駄がないのがすごいよ。今、金をかけた日本映画で面白いのなんて、他に思いつかない。監督だけの力だけでなく、金とスタッフと、いろんなものの歯車がすごくうまくはまっている快感を感じる。
■原作のディープ加減はすっかり薄まっているけれど、だからこそロードショー作品として通用するとも思えるし、かといって原作のイメージを損なうものでもないというバランス感覚のすごさは、くどいようですがクドカンの一番すごいところなんじゃないかなあ。
■公開初日のためか、客層は長瀬ファンだと思われる人々多数で、長瀬が何か(キスとか屁こきとか)する度に「いや??」という喚声が上がっていたり、笑いの沸点がどうも低いのにはうっとおしい思いをしたものの、そういった人たちと自分との視点の断絶的な差を感じたのも面白かった。しかし、その人達は長瀬の魅力を堪能できて満足だったろうし(たぶん)、私は全体の質の高さもさることながら細かいネタも満載で満足満腹。この両者に橋がかかる映画が存在し得ることにも驚きだ。

■クドカン演出芝居は『春子ブックセンター』しか観たことがないのだけれど、そのときに感じた一切の影の無さ、どろどろ(原作のディープさとは違う意味でのね)とか共感の涙とかそういうもの一切を否定する「ぱっか??ん」な感じ、TVで言えば「木更津キャッツアイ」に一番よく出ているあの感じがある。
■今月号の「文学界」の阿部和重×中原昌也対談では『エターナル・サンシャイン』(私は未見)を筆頭に、最近流行の「共感主義」をこき下ろしている。優れた作品を作る力がないから恋愛物語を挿入して観客の一番入りやすい「そうそう、そういうことってあるのよねえ」心を突いて感動させて、「良い作品」のふりをする映画と、わかってもらいたいとか感情移入して気持ちよくなりたい観客、その双方の「共感」したがる気持ちの悪さとダメさを攻撃していたのだが(や、多分。流し読みだったので間違っていたらすみません)、そういった「感情移入」の物語の気持ち悪さはこの映画には一切無い。共感を否定する映画。
■や、もちろん弥次喜多の恋愛物語でもあるのだけれど、あの原作だし、それを見事なまでに映画化したものだから、そんな生半可な共感なんて入る隙はない。

■入り方はとても映画的でありながらその直後にそれを否定する構造は、もはや映画というものは成立し得ないからこそという視点からの解釈もできるだろうが、まあクドカンの、自分は映画は門外漢ですから、という照れと解釈していいものだろう。でも、あの始まりは良い。

■とにかく、ばからしさとでたらめを素晴らしいと褒め称えたくなるまでにやりきってる。

■でももしかしてこの映画を観て一番嬉しいのは荒川良々ファンなのではないだろうか。ね?

2005年01月19日

『無防備都市』1945

■ロッセリーニをやっと一本。60年前、日本終戦の年の一本。
■ナチスドイツ占領下のローマ。レジスタンスとレジスタンス狩りをするナチス将校。
■レジスタンスの一人との結婚を控えたアンナ・マニャーニの見た目が完全に肝っ玉母さんであり、渡辺えり子。どっしりと。怒るえり子、恥じらうえり子、パン屋からパンを収奪するえり子。
■その彼女が、ナチスに捕らえられた恋人の乗せられたトラックを追いかける。カメラは走る彼女を捉えたまま、銃声が数発響き渡り、陽を受けた白い道路に彼女は崩れ落ちる。彼女のたくましく力をみなぎらせていた体が倒れる様は、まさしく崩れ落ちたと言うにふさわしい。
■一瞬何が起きたのか呆然とする。だって彼女は主役格の人間なのだ。物語の中盤でこんなにあっさりと死ぬのだろうか?末期の言葉さえ無しに?死ぬのだ。そんなものなのだ。言うことを聞かなければ撃たれる、撃たれれば死ぬ。

■レジスタンスと活動資金を届ける神父との合い言葉が大衆歌(?)の口笛なのが妙にほほえましい。緊迫したシーンで大人2人が真剣な顔で口笛を吹きあっている。何をしているのだ、この人達は。
■子ども達は毎日集まって戦争ごっこでもやっているのかと思いきや、大人に隠れ子ども達だけで、輸送列車を爆破してしまう。事を成し遂げた彼らは得意さにふくらんだ顔をしているが、家に帰れば帰りが遅いと怒っている親に迎えられる。下の階の子どもから順に家に入って怒られ泣きわめき、子ども達の顔が、レジスタンス気取りの顔からどんどん不安げな子どもの顔に戻っていくのが笑える。

■テーマは難しかった。硬い内容の映画だ。けれど、硬いだけの映画ではなく、レジスタンス闘争だけを撮ったものでもない。レジスタンスの活動があり、生活物資も不足している状況の中にも、「生活」はある。笑いもある。テーマの崇高さよりむしろ、そうした生活の細かい、生々しい描写にぐっときた。
■パン屋から収奪したパンを、立場上とがめるしかない仲良しのお巡りさんにそっとお裾分け。
■十字を切ってから一緒にパン屋を襲う修道士。
■活動資金を隠した本をそれと知らずに、重いから持ちますよとあずかるアンナ、それがなんなのか言うわけにいかずしどろもどろになる神父。

■シリアスな状況下のシリアスなシーンだからってシリアスに事が運ぶとは限らない。現実なんてそんなもんだし。

■しかし、ラストシーンにはくらくらした。町を見下ろす丘の上で神父の処刑が行われる時、子ども達はフェンス越しにただ歌を歌う。神父の死を見届け、彼らは町へ戻っていく、無言のまま。その彼らの後ろ姿は悲しみに溢れるものではなく、あくまでも決然としたものだ。続く闘争のために、彼らは凱旋していくかのように見える。

2004年12月27日

『マルメロの陽光』1992

■マルメロの実と樹に降り注ぐ瞬間の陽の光を描きたい、現実に忠実に。そのために足場をクギで固定し、水平軸を決めるための糸を張り、中心点に重りを下げ、マルメロの実、葉、背景の壁、樹に無数の白い目印を付ける。日が経つにつれ、葉は垂れ、実は熟し、目印の点は下へと下がっていく。元の高さに当たる部分に目印を付け直し、その位置が変わるたびに絵を直す。非常に丁寧に書かれていく線は当然ながら少しずつしか進まず、絵が完成することはない。そんな作業を彼はもう3年繰り返している。
■とはいえ、これは神経症患者の話しではない。スペインの「スーパーリアリズム」の画家アントニオ・ロペス=ガルシアの制作風景をアントニオ・ロペス=ガルシア本人が演じている作品なのだ。奥さんや友人、娘達もすべて本人達が演じており、ひたすらに制作風景を描いたこれは、ドキュメンタリーのようでもある。けれども、脚本も無いようにみえ、どれだけ自然に演じられていようとも、これはドキュメンタリーではない。アントニオの画風が「スーパーリアリズム」であり、現実を切り出したかのように描いたとしても、それが現実ではないように、この作品は「スーパーリアリズム」な映画なのだ。
■とはいえ、「スーパーリアリズム」の画家を「スーパーリアリズム」以上に「リアル」に描くための手法があるだろうか?あらゆる伝説や物語を排除し、ただ、画家の絵を描く姿と、それにまつわる制作風景を映し出す。それは監督ビクトル・エリセによる「スーパーリアリズム」の実践なのではないだろうか。

■しかし、それは単調な日常ではない。娘達との会話、妻との会話、訪ねてきた友人との思い出話。その間に挟まる家の改装をしている職人達の会話。何気ないそれらが、豊かな日常を浮かび上がらせる。
■丁寧で、神経症の一歩手前というよりは突き抜けてしまっている観のある彼の動きに、焦りや性急さは一切感じられない。彼は言う「絵を仕上げることよりも、このマルメロとともにいる時間が大切なんだ」と。そのわりにはマルメロは白の絵の具で目印つけられまくりでかわいそうな感じになってますけど。そこら辺の人がやったら完全に神経症で病院に通えと言われるだろう。しかし、実際にそうやって作品を作り上げてきた画家に対しては、みな彼の方法を尊重するのだ。
■作り上げることと、そうでないことの深い深い落差。

■キャンバスを作る淡々としていて無駄のない整理された動き。キャンバスに線を引く音、余分な布地を切り落とす音。そういった音のクローズアップにぐっときてしまうのはなぜだろう。『GERRY』の足音と同類のあの感じ。
■歌でも歌おうか、と突然二人コーラスを始めるアントニオと友人。
■休憩にチョコとコーラを頼む友人じじい。
■思い出に、とマルメロを食べてみる職人達。生ではおいしくないらしい。
■アントニオの完成されている絵を見てみたい。

■色彩と音と。これこそ映画館のスクリーンで観るべきなのに。

2004年10月24日

『モーターサイクル・ダイアリーズ』

■ゲバラのように実在の人物であり、多くのエピソードや伝説に取り囲まれている人物の映画を観に行くのはちょっこり不安。あれもいれたいこれもいれたい、で結局視点がばらけて疲れるだけの映画になりがちだからですね。その点、これは旅行中のゲバラ(とアルベルト)に焦点を絞っていてほっとした。当時の「吸収していくゲバラ」に未来の「活動家ゲバラ」を重ね合わせないようにとても慎重に描かれているように思う。その分、最後の「その後の二人」テロップは我慢しきれなかった感があって残念。最後まで我慢しきって欲しかった。
■現地の「しいたげられた人たち」の描き方にやや物足りなさを感じた。ゲバラが出会い、彼に変化をもたらす象徴として描かれる人々は皆苦悩の顔をし、苦悩を語る(子どもとハンセン病患者たちは笑顔を見せるが)。苦悩の人々にも毎日の生活があり、そこにはあらゆる側面があるはずだ。キアロスタミが『そして人生はつづく』でサッカーを観るためにアンテナを立てる青年を描いたように、たとえどんな苦難の中にも、そこに生活がある限り、楽しみや喜びはあるはず。苦悩だけではない彼らも描いてほしかった。チリでのダンスパーティー(ここのおばちゃんの歌ステキ!)のように娯楽のある人々と、そうでない人々が分離してしまっていたのが残念。とはいえ、これは当時のゲバラの視線としての映画なのだろうから、あえてゲバラからの側面だけを描いたのかもしれないけれど。
■と、けちをつけたとはいえ、現地の人々とふれあい、自分たちの中にどんどん吸収していく二人の旅の様子は、いかにも「旅」で、とてもうらやましい。市場でいろんな人々と話すゲバラの生き生きした感じはとても好きだしすてきだ。きっちり旅に行きたくさせられた。
■マチュピチュへ登っていく断崖のような山の空に突き刺す感じには胸をつかれた。あそこを登りたい。途中で絶対足が動かなくなるけど。

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