2008年11月04日

『トウキョウソナタ』

『トウキョウソナタ』はとてもおもしろかった。
とても黒沢清の映画とは思えない題材で、とてつもなく黒沢清な映画だ。観てからそこそこの時間が経つけれど、この映画のことを考えると、あまりにもいろんなことが頭に吹き荒れて思考の方向性を整えられない。ゆえに感想が書けない。
でもとてもおもしろい。それだけは書いておこうと思ったわけであります。
これはへたな監督が撮っていたらごくつまらない「ちょっと変わったホームドラマ」にしかなりえない。黒沢清にしか作れないコメディ。

とりあえず言えることは、役者達の使われ方の的確さ。津田寛治の底の浅さ、アンジャッシュ児島の小者感、たまらなくはまっている。普段何とも思っていないのに、的確な役に当てはめられるとこんなにも素晴らしいく思えてしまうんだな、というのは『ドッペルゲンガー』のユースケや『回路』の加藤晴彦などなど、黒沢清作品でなんども感じた感覚。
それに小泉今日子がこんなにいいなんてなあ。うなされる香川照之を見下ろす、ちょっとした間に見せたあの顔が非常に冷たくて素敵だった。

例えば、話が分からなかったり、展開になんだかなあと思ったりしても、テレビ等で見慣れた人達の魅力にはっとする(しかも児島や津田はダメさ加減が輝いているという)という幸せを味わえるなら、それだけでその映画はすてきじゃなかろうか。
私は全面的にこの映画が好きなので説得力無いかもしれませんが。

うーん、この映画のゴールデンロック並みのバランスで成立しているようなあり得なさかげん(存在し難い感じ)はいったいなんなんだろう。

2008年04月19日

『ダジ急』再

映画感想ブログ(主として)に戻ります。

『ダージリン急行』2度目の観賞。
いえ別にこれしか観てないわけじゃないし、他にも面白い映画観てるんですけどね…

再見により少しは余裕ができたのか、車窓のシェード越しの光の動きに魅了された。全ての電車のシーンを実際に走る車内で撮影した成果の一部。

相変わらず冒頭のスローモーションから感動で胸が詰まる。そして最後のスローモーションで感極まる。ああ何度でも観たい瞬間!それがなんでどうしてそんなに感情を揺さぶるのかなんて相変わらず分からず。

そしてラストで感じるどうしようもない幸福感の正体も。決して全てがめでたしめでたしではない、むしろ悲しみを含んでいる決別の後の、新たな始まり。その悲しみもやりきれなさもひっくるめて幸福を感じてしまうこの感覚はつい最近他でも感じた。ルノワールの『黄金の馬車』だ。

いや、いろんなルノワールの映画がそういうやりきれなさや悲しさを内包した、胸が詰まるような幸福感を与えてくれる。
そうか、ウェスはルノワールなんだ、と至極乱暴な結論。
描く中身も絵も違うけれど、あの幸福感はとても近しい。
私にとってこの図式はとても幸福なモノなのですが…あまりに乱暴で怒られそうですね。

2008年03月18日

『ダジ急』補

青山真治監督の日記(3/16日付)に書かれている「映画というのはたとえそれがボール紙であろうと実在するものの運動の記録のほうを向いているのであって、意味を還元させるために二次的に捏造されたものには無意味が足りない」と「ウェス・アンダーソンやタランティーノの真に映画的な魅力」という文を読んで(このタランティーノは当然「デス・プルーフ」の、ということだと思う)、青山さんが繰り返し日記の中でも書いている「活劇」や「アクション」という言葉がぽんっと実体を持って出てきた。

例に挙げられる映画を観ていなかったり脳みそが辿り着けなかったりで、今まではどうにもよく分からなかったそれらの言葉が(勝手な解釈ではあるけれど)、つまるところエイドリアン・ブロディの走る姿になって目の前に現れた、と思えるんだけどどうなんだろう。

そう考えると、あのスローモーションがどうしようもなく魅力的な理由が少し腑に落ちる。というか、自分の中で言葉にならなかったことに道筋を立ててもらえたというか。純粋な運動の記録としてのスロー。意味づけはなく、感情や物語の展開とも関係のない、映すべきものとしての運動を、より効果的に見せるためのスロー。

何の必然もないのに、不可欠で絶対的に思えるスローモーションは、それが映画だからこそ存在できるってことなんだろうか。

だから、私がつい「いままでに観たことのあるどんなスローモーションとも似て非なるもの」と書いてしまったのはつい勢いがついた、というか「自分が」と頭に入れるべきなのは当然だし、例が出てこないのは自分の怠惰のせいなのであって、その数行前に自分で書いているとおり、それはもちろん「映画」には存在し得るものなんだろう。

あのシーンにありとあらゆる意味をつけることもできるし、感傷的な解釈もできるし、でももしかしたらあのシーンは単にブロディの走る姿が妙にきれいだったからスローにしちゃったってことでも当然ありだ。いや、逆に意味がありながらもまるでそれ単体の瞬間のように存在していることがすごいのか。ぐるぐる。

2008年03月16日

『ダージリン急行』

不意にフレームインしたエイドリアン・ブロディが走り出した汽車に追いつきデッキに飛び乗る、その一連の動きがスローモーションなのは、ただただ彼の長細い体がしなる美しさを堪能させたいがためなのではないかと思うほどに、このシーンの彼は魅力的だ。

それと同時に私達は、活劇の中を駆け抜けながらも追いつくことができなかったビル・マーレイに対する充分な別れの時間を与えられる。いつもどおりの絶妙なくたびれ加減と溢れる魅力に満ちた彼の顔が遠ざかっていく。これ以上の彼にとっての幕引きは無いんじゃないかと思えるほどにはまりすぎ。

今までのウェス・アンダーソンの映画とは違い、ここには大将となるべき、1つの大きな求心力を持った人物は出てこない。だから物語も進まない。雑多に時は流れていく。時にはそこに戸惑いつつも、既に冒頭から魅了されているのだから、抗いようもない。そして結局最後にはいつも通りに完全にやられている。まったくもって。

『ライフ・アクアティック』ではクライマックスにふさわしいタイミングで使われたスローモーションが、この映画の中では冒頭に始まり繰り返し、要所要所で連発される。そして最後のスローモーションに涙が溢れて止まらないのは、なにもそこに描かれていることから読みとれる意味ばかりだけでなく、スローモーションという手法それ自体が、そのシーンのために繰り返された伏線だったんだと気づいて(勘違いして?)感動してしまったからだ。

スローモーションと併せて、古き良きアクション映画のようなカットやズームアップも多用されているけれど、スローモーションもズームアップも、多用すればするだけ品のないクソ映画になりそうな手法なのに、そんなことはみじんも感じないし、敢えて使っているといった1回転を狙うあざとささえ感じられない。

それはもちろん、使うべきところに的確に使われているからなのだろうけど、それだけじゃない、それ以上のものを感じるのは何でなんだろう。その疑問はウェスの映画にずっと感じていたことでもある。どうしてこの人のスローモーションはただただ無対価に感動的なんだろう。

ここで使われるスローモーションやズームアップは、まるで今発見された手法のようだ。その手法が発見された以降に多くの映画で「便利な」手法として使われてきたうんざりするような手垢まみれのものではなく、今生まれたこれらの手法をどうしたら最大限に生かせるのか、最も面白いのかを一から考えているんじゃないかと錯覚してしまう。それらの手法が発見された喜びに満ちているような。

もちろん先人たちの映画を踏襲しているのだけれど、ウェスが見ているのはきっと、そうした喜びの時代の映画なんだ。

と、改めて書いてみたら当然のことだった。ウェスがどれだけ「映画」を愛しているかなんて、何を今さら、だ。それがどんなふうになんて、私には語る知識はないけれど、彼の映画を観ているだけで充分だ。

ただ、そうした愛が新しいスローモーションを生みだしてしまったんじゃないかと、そう思った。あれは、いままでに観たことのあるどんなスローモーションとも似て非なるものだ。きっとそうだ。

興奮にまかせてこんな与太ごとを書いてしまったけれど、本当はちっともこの映画を咀嚼できていない。ただ、今とりあえず書けることがエイドリアン・ブロディの感動的に美しいダッシュ姿だっただけのことだ。そしてそこから始まったスローモーションの終結点が素敵すぎたからだ。

何度も噛まなきゃ分からない。
後から反芻しなきゃ味わい尽くせない。
ラストのあの曲を、何度でも多幸感と共に聴きたい。
あれがなあ、始まりを祝福する歌になるとは。

ともあれ、この映画を観られて幸せだ。

2007年09月18日

『デス・プルーフ』

爽快!すばらしく爽快!
グダグダの前半、一気に加速する後半、そしてラストのエクスプロージョン!

後半のカーチェイスが生きるのは、もちろん前半のグダグダガールズあってこそで、あの前半をガールズトーク&ラップダンスで乗り越えてしまえるのはさすがのグダグダトークフェチ、タランティーノの面目躍如か。
そしてカーチェイス!延々と続くあれを、最後までワクワク感満載で見ることが出来るのは素敵だ。まあ、CG無しっていうことでも既に嬉しくなってしまうのだけど。
さらに何と言ってもあのラストなんだから!
場内爆笑!スタンディングオベーションが起きるという噂も納得できる。
信頼する人たちのブログで面白いと書かれていても、フィルム傷とかグラインドハウスとか狙いすぎて、あざとくなっちゃってるんじゃないの?という疑いを捨ててなかった自分にさよなら!タランティーノ見なおした。

ラップダンスでお腹がパンパンに膨れてるのを見て、きちんとこだわってるなと、細かいことに感心してしまったり。
女優のチョイスまできっちりグラインドハウスだな、とか失礼なことを思ったり。
幕間のコントのような警官親子のやり取りも、これぐらい入れとけばみんな話が分かるだろ、ていう適当な感じがいい。あと、息子の「Pa?」も。

個人的には、最近ジョン・カーペンターでハードボイルドなカート・ラッセルを続けて観ていたせいで、余計に今作の変態ぶりと最後のチキンぶりがツボにはまってしまった。「アイムソ〜〜リ〜〜」って、おい…
そうだよね、カート・ラッセルのハードボイルドが醸す雰囲気って表裏一体だよね、うんうん。

こちらのブログによると客入りが芳しくないそうで。
なんてこったい!こんなに大勢で奇声を上げながらバケツポップコーンバリバリ、コーラガブガブが似合う(ていうかやりたい)映画なんて今やそうそう無いっていうのに!もったいない。

むろん『プラネット・テラー』も観に行きます。


@新宿武蔵野館
監督:クエンティン・タランティーノ
2007

2007年08月26日

『天国の門』

回る回るよ世界は回る。
「UAを破産させた映画」という知識のみで観たこの映画は、ともかく回る映画だった。輪舞、スクラム、馬車、ローラースケート、戦争、人は自分を回し、円を周り、振り上げられた帽子も回る。
そして、画面の中で何かが回るたびに、この映画の豊かさが溢れ出す。
それは単純につぎ込まれた金額だけのものではないとはいえ、これだけのセットや群衆を作り出す映画はもはや存在できないだろうな。むしろ、81年にまだこれだけのものが作られていたことに驚いた。当時酷評されたなんてなー。やはり制作費が巨大すぎたことがいけなかったのだろうか。
回る、回るたびにその物量の豊富さが、そしてそれらがもたらす力が、遠心力によってスクリーンの外へ放出されているような映画だ。むしろ監督は遠心力の魔法を信じて群衆を回しカメラを回したんじゃないか。

話の内容としては、富裕層の既得権益を守るために邪魔になる、「遅れてきた移民」である、東欧ロシア系の貧しい移民たちを、合衆国政府掛かりで虐殺するという話なので、今ちょうど読んでいる『権力の読みかた』の内容を思い出し、権力というモノの本性にうんざりしてしまったりもするのだけど。この、治安(=セキュリティ)の大義名分によって治安を乱す者達(弱者)を切り捨てた時代から半世紀で国家は社会保障(=これもセキュリティ)を増強させ、1世紀で再びもとに還ろうとしているのかなあ、とか。観ている間はそんなこと考えもしないけど。

今回の上映は16ミリを焼き直してトリミングした版ということで、画面がやや不鮮明だったのが残念。きれいなプリントで本来のシネスコで観たら、あの荒野が、あの戦闘が、輪舞が、どんなふうに見えるんだろう。あと、オリジナル219分版も観てみたい。

若いクリストファー・ウォーケンの顔があまりにもオリジナリティに溢れていて居心地が悪くなってしまうのだが、話が進むにつれて、繊細さに溢れた顔に見えてくるのが不思議。

群の集会所でのローラースケートパーティにおける「カントリーミュージック」がまさしくRailRoadEarthと同じ至福感に満ちあふれていたので、あの音楽においてサークルモッシュが出来ることの当然さを会得。回ることこそがあの音楽に対する正しい向き合い方だ。

ああ、それにしても、全ての回るシーンがすごいよ。

@シネマヴェーラ
1981年(149分公開版)
マイケル・チミノ監督

2007年04月30日

『ダフト・パンク エレクトロマ』

なんじゃこりゃ。
あー観なかったことにしたい。
記憶を消したいー。
いやー!帰ってごぜーやい!

中身はほぼガス・ヴァン・サント『ジェリー』の劣化パクリ。その合間にどこかで観たことのあるようなPVの残滓、カスのようなものが挟まっている。あーん。私の大好きな『ジェリー』をここまで劣化した状態でコピーするなんてヒドイや。ダフパン、特に好きでも嫌いでもなかったけど、今回で憎悪が芽生えた。どうせならカット割りまできちんと完コピしてくれー。設定だけ適当に使いやがって。『ジェリー』はこんなにダサくないやい。
『ジェリー』を知らない人でも、オープニングからのカット割りのダサさに不安を感じ、いや、でも演奏シーンまで頑張ろう、これはフリだ、と歯を食いしばり、いつまでたっても期待するものが表れない不安が頭のてっぺんまで充満した頃にちょうど終了、という羽目になっているに違いない。
『マルコヴィッチの穴』ダフト・パンク版な町のシーンでさえ、くそまじめさを装うばかばかしさから生まれるはずの笑いですら殺してしまうその編集のダメダメさ。全編、「溜め」を作ろうとしながらも、自らその長さに耐えられなくなってしまった中途半端さに満ちているし。
いや、だから映像がダメでも音がカッコイイとかあればいいんだけどさ。

この人達は何をしたかったんでしょうか。

観てのとおり、才能のカスほども残っていないのでダストになります、という遺書なのか?でもその遺書、頑張って書いてくれたけどもう耄碌しちゃってたのか意味が分からなくて残された私達は混乱します。

音楽好き的にも、映画好き的にも、映像好き的にも、これはダメでしょう。10分くらいに再編集してダフト・パンクの曲をのせたら、もしかしたら面白いかもしれんけどね。

@シネマライズ
2006年
監督:ダフト・パンク

2007年04月19日

『デジャヴ』

突っ込みどころがありすぎ、いや、一旦立ち止まって考えたら全編突っ込みポイントだらけなのではないか、という理性など断固拒否するし、そんなことを考えながら映画を観るなんて土台無理とせせら笑う、というスタンスなのか。そうなのか。そうなんだな?
困惑を抱えながらめまぐるしいカット割の嵐に流されていくうちに、困惑することすら追いつかなくなって、後はもう、映し出される瞬間瞬間に体を反応させていく。逆に言えば、流されていくこと以外にこの映画の見方が分からない。

その乗り切れない感じはおそらく私がこういった種類の映画を見慣れていないせいで、対応する体が出来ていないせいなんだろう、と思ったが、中原昌也×芝山幹郎の『映画の頭脳破壊』を読めば「突進力に勝負を賭けた感じがあった。あの強引な設定で突っ走っちゃう」「大真面目がたまたまバカに見えてしまう」といった言葉がちりばめられており、私が観ながら感じていた感覚はあながち間違いではないようだし、しかも「知性の足りない人」は「映画のバカ」に「マジで涙したり」、「必死に騙されまいとしたり」するらしいので、そのどちらでもない自分は「知性」が足りているのだ。
と、断言してみたいものの、もちろん私自身が感じたことは、面白いけれど乗り切れないということは、やはり自分はこの手の映画が苦手なのだろうか、といったごく消極的な結論で、とてもではないが自覚的に「バカ」を楽しむなどという境地に達していたわけではない。こういうのは3パターン目の「知性が足りない」だろうな。
どうやら、このお二方の対談を読んで『デジャヴ』に対する接し方を見つけることができたおかげで、私は新しい結論を得ることが出来る。
つまるところ、現在の大作ものももっとじゃんじゃん観るべきだ。対応する体をつくり、「不真面目」ではなく「大真面目な大バカ」から生まれる面白さを観たい。

と、そんなことも思いつつの感想
■冒頭の船のシーン、くどいほどの長い時間、スローモーションで人々を映し出し、劇場にいる人間全員が、もうすぐ何かが起きるんだなということと、いずれこのシーンが重要になってくるんだなと気がつくまでは決してやめないんだろうと思える無限の時間が、あまりの長さに楽しくなってくる。
■犯人が取り調べを受けているときにぽろっと一滴涙を流す瞬間に、どきっとしてしまう。涙の意味は分からないが、その唐突さに毒気を抜かれ、犯人を憎めない。
■デンゼル・ワシントンの相棒的に動くFBI捜査官が、妙にゆったりとした時間をまとっていて、矢継ぎ早なこの映画の中で1人違う時間を生きているように見える。なんだかいい味だなあと思って観ていたらヴァル・キルマーでたまげる。顔こんなだっけ…。
■この映画にちりばめられている政治的要素、「大真面目」さはとても真摯で、どんなに強引であろうが「この物語」はハッピーエンドでなくてはならないという頑なな意志を感じ、そうした姿勢には素直に感動してしまう。そうでありながら「バカ」の賞賛を受けてしまう娯楽作、て、あれ?それはとてもすごいことなのかも。

@吉祥寺東亜興行チェーン
監督:トニー・スコット

2007年02月14日

『デ・ジャ・ヴュ』

わくわくどきどきおもしろい。
そんな言葉はシュミットの映画にふさわしくないだろうか?
けれどこの映画の中には怪奇的甘美さと冒険もの的わくわくどきどき感が併存している。

タイムトラベラーものであり、
推理ものであり、
怪奇ものである、ダニエル・シュミットの世界。

現在と過去、昼の光と夜の光、正気と怪奇。
行ったり来たり?入り乱れ?いや、初めからすべてはそこにあり、ほんの少しの視座のずれが見えるものを選択するだけ。境界の融解。初めは鈴の音をきっかけに、やがては何も必要としなくなる。現在と過去の解け合いに、酔っているような感覚さえ覚える。その感覚がまた気持ちいい。

映画において作り物である過去の世界が、現実のものである現在と同等の存在感を持って画面に映し出されることと、振り子のような交わりがそういった感覚を作り出すのだろうか。

初めはアゴが気になる主人公の顔は、映画が進むにつれてどんどん魅力的、いや、魅惑的に見えてくる。

ラストのアレの山。そんなに箱に入りません。
は!そうかあれは4次元小包だもんな。

ビデオで観たときには画面が暗くてよく分からなかった場面も今回やっとはっきり見えて嬉しかった。ビデオでは暗い場面がほとんどつぶれていたことも分かりました。
拷問や祭りや池に映る顔や酒場の中でさえ。
あの絶妙な暗さが良いのにな。

あらためて、ダニエル・シュミットの映画は映画館で観なければダメなのか、としょぼくれる。
『今宵かぎりは…』も『ラ・パロマ』も観たかった、観たかったけどさー。平日の19時にアテネフランセは無理!ちなみにユーロスペースに観に行ったこの回も満員立見階段見スクリーン横見とぎゅうぎゅうでした。すごいな、シュミット。


※ここまで読めばお分かりのように、3月に公開されるトニー・スコット『デジャヴ』とは別物です。
原題Jenatsch。1987年スイス製。
監督であるダニエル・シュミットが昨年逝去し、今回アテネフランセとユーロスペースが共同で回顧特集を組んだものです。

2006年12月16日

『トゥモロー・ワールド』

はじめに:私の周囲の人々によるこの映画に対する評価の高さと、自分の評価との差異にとまどう、いや、差異にとまどうというか、その差異の所以を自分ではっきりつかめなかったことにずいぶんと悶々とさせられました。ゆえに、いつも以上にまとまらないままに書いています。もう観てから2週間も経つのになー。

なんだかぶつ切りの映画だった。1つのシーンの中でのスムーズさに対して、シーンの切り替わりにはブツンブツンと音が聞こえそうな。実際にかかっていた曲の切れ方がブツンといった感じだったせいかもしれないけれど。

説明に埋め尽くされた映画だった。複雑な設定を一切言葉で説明せず映像や映画の進行と共に観ている側に理解させてしまう、その構築は見事だが、逆に言えばすべてのシーンと登場人物たちがその世界を説明するために存在しているようで、観ていて少し息苦しかった。すべてのシーンから「状況説明」が立ちのぼってくるような。

この2つの理由で、私は何か「よく分かるトゥモロー・ワールド」的なものを観たのではないかという気持ちになってしまった。あるいはダイジェスト版か。映画の長さが90分程度と聞けばそれだけで良くやったと言いたくなってしまう自分だが、この映画はひょっとすると140分くらいの長尺のほうが面白かったのではないかと思う。けっしてダメ映画ではなかっただけに、切り落とされたところに私の求めるものが詰まっていたのではないかという思いに捕らわれてしまうのだ。

それでもあの8分間のノーカット戦闘シーンがあるじゃないか、あのシーンに興奮しなかったのかと問われれば、微妙。その8分間の存在がこの映画の評価をさらに上げているのは確かだろうが、私にとってはあれは映画ではなかった。
レンズに血を付け主人公と一緒に走りだしたカメラはもはや映画のカメラではなく従軍カメラだ。いやでもそこにカメラを持つ人間の存在を感じ、今現在「ここではない場所」で行われている戦闘を思い出さずにはいられなかった。そもそも収容所に一歩入ってから、「近未来」という設定を捨て去りあからさまに「イラク」(あらゆる現代の戦闘の象徴としてのイラクかもしれない)を強調している。
なぜ唐突にニュース映像のように撮られた映像を使ったのか。長回しの結果だというエクスキューズは、ジュリアンの死のシーンでCGを使って長回しに見せかけている以上通用しない。むしろ私は、あれは監督があえて映画であることを放棄した8分間だと捉えてしまった。どうにかして「イラク」を描こうとあがいている、収容所から先の映像はそういうものではないのか、そう捉えてしまった。私はその監督のあがきと「イラク」への思いでずいぶんと泣いてしまった。

ほら、ずいぶんと息苦しい。
説明と、「思い」や価値観の提示に満ち満ちている。今画面に映っているものではなく、映っていないものへの窓にならんとしている。その画面に映っているものがストーリーや何もかもを超越して、ただスクリーンに釘付けになることをこの映画は一瞬たりともさせてくれなかった。
それをあえて行っていると解釈して、監督のその愚直ともいえる真摯さに感動して泣いてしまうものの、見えるものにただ唖然とするしかない一瞬がなかったことは残念。あの空飛ぶ豚がピンクフロイドへのオマージュではなく単に浮かんでいるものだったら良かったのに。

私は映画としてこれを傑作だとは言えない。
けれどこの映画のメッセージ性をきらいではない。

今、世界には戦闘を止められる「最後のこども」など存在していない。だからこどもはそのままどこかに消えてしまうだろう。私達の世界ではないどこか別の場所に。

あ、そうだ。犬。役所犬にさんざん嫌われている主人公が、ゲリラや収容所など反政府的なところにいる犬(とネコ)にさんざんなつかれているのは良いね。

2006年11月26日

『父親たちの星条旗』

英雄に祭り上げられた「現在」の間に差し入れられる硫黄島の「過去」。かなり細切れに幾度も幾度も差し入れられることで、過去の「記憶」は「過去」ではない強調する。「英雄達」にとってそれは一続きの「現在」。英雄という役柄を強制される現在と硫黄島で戦う現在が1つの体の中で並列されることのなんていう息苦しさ。華々しさが強調されるほど、過酷さが描かれるほど、苦しさは増す。
「戦争」がいかに人々の目に見えないものなのか。
国家のために戦うことと、戦場で友のために死ぬこと。その決定的な違いを国家は認めない。
国家は救わない。国家は面倒をみない。国家は国民のためにあるのではない。国家は利用するだけだ。『父親たちの星条旗』が執筆される現在からの視線がそのことをより鮮明にする。

イーストウッド×スピルバーグという組合せがすばらしい相乗効果を上げている。イーストウッドのシビアさにスピルバーグの戦場描写に掛ける異常な情熱。
すさまじい攻防の描写を、次は防ぐ側からの視点で見ることが出来るのかと思うと、不謹慎と言われようがワクワクしてしまう。理念的でありながら「映画」の興奮をも、しっかりともたらしてくれる作品。


ちなみに、マイク軍曹を演じたバリー・ペッパーはとてもステキだ。『メルキアデス〜』での彼は卑怯で小心で傲慢さに満ちあふれていたけど、今作では始めから最後まで良いヤツだった。嫌味な役をやらせたくなる顔なのに。それでもあえてナイスガイ。なんだか、そうなんだよ本当はあいつ良いヤツなんだよ、と勝手に嬉しい気持ちだ。

2006年10月05日

『近松物語』

抑圧された純情ほど怖いものはない、ってこと。

初めて男に愛される喜びを得た女の情念も、怖い。
男の名を叫びながら、痛めた足を引きずり山を駆け下りる、その姿のすさまじさは愛で捕らえるべきか恐怖と捕らえるべきか迷うほどだ。
逃避行の中で、お歯黒がとれ、眉毛が生えてくる、分かりやすい外側のサインに伴って奥方から1人の女へと変貌していく様もすごい。いやもう、びっくりするほどかわいく美しくなってしまうのだ。時が経つほどに、女の妖艶さがにじみ出る。

抑圧された果てに溢れてしまった純情は、それまでの抑圧と、更なる抑圧によって巨大なモンスターとなり、周りのものすべてを破壊する。それだけではない。結局、破壊しきれなかったシステムに捕らわれながらも、それを本来あるべき恥辱や恐怖としてでなく、愛を貫き通した自分たちへの勲章のように迎えるならば、その時点でそのシステムはシステムとして機能することが不可能になってしまう。システム自体は存続する、しかしその意味はもはやそれまでのものと同一ではあり得ない。
純情は、世の中のシステムをすら破壊する。

映画の最初の方から、いずれそうなると思ったと納得させるような2人の間のほんのささいなやり取りの繰り返しが、本当にすごい。なんだろう、あ、この人自覚してないんだな、ていう微かな雰囲気が。

琵琶湖に身を投じる直前に愛を告げられ、足を縛られたまますっくと立ち上がったときの香川京子の顔、山を駆け下りて転び、それを見かねて出てきた長谷川一夫をなじりながらしがみつく香川京子の肩、すさまじく「女」です。怖いよう。

スクリーン+ニュープリントで観られたおかげか、画面の白黒は触ったらとろりとしていそうだった。2人の情念の強さにふさわしいとろとろ加減。


これが実は初溝口。他の作品もあらすじを読むと「女」がすさまじそうで怖いです。せめて後1本は特集上映で観たいな。

2006年09月28日

『太陽』

イッセー尾形の「天皇スペシャル」ショー。
面白かったなあ。一度でも、舞台、TV、CMでイッセー尾形が何かを演じているところを見たことがあれば、この「天皇」が、その他の彼が演じる女子高生やオタクや大工や営業マンやらと同じように、完全に演じている対象でありながらイッセー尾形以外の何者でもないという「天皇」であると分かるだろう。独特のテンポ、間の取り方、飄々とした雰囲気、「天皇」よりも「イッセー尾形」に親しみがある自分としてはそれはどこをどう見ても「イッセー尾形」であり、「天皇」というネタを存分に味わったのだ。
といって、それが映画を邪魔しているわけではない。「天皇」をお話として客観視しにくい人々、特に日本人にとっては、イッセー尾形というフィルターが掛かることで、むしろ余分な葛藤を必要とせずにこの映画そのものを楽しむことを可能としているように思える。
つまり、イッセー尾形という存在は、この映画にコミカルな明るさ(何度も笑えるシーンがでてくるしね)と、(天皇を客観ししにくい人々にとっての)葛藤の除去という2つの効果をもたらしているのではないだろうか?一体誰がソクーロフにイッセー尾形を薦めたんだ。それとも海外公演などでソクーロフが彼を知っていたんだろうか?いずれにしてもなんてツボにはまったキャスティングなのだろうと感動してしまった。

一応書いておくと、もちろんこの映画を観るまでに幾分の葛藤はあった。太平洋戦争終結前後の天皇の話なんて、いくらソクーロフとはいえ、一体どんな映画になっているのか不安になるし、まかり間違って賞揚するようなシーンが出てきたらいたたまれない。で、結果的にはほっと胸をなで下ろし、ソクローフの描こうとしたものに涙を流した。

天皇の事なんてほとんど知らないけど、おそらく巷に流出しているあらゆるエピソードからこのストーリーは構成されているのだろう。もちろん、中には誰も知り得ないはずのシーンもあり、世間的に知られている事実は画面に現れず、その時の本人をひたすら追う感じからも、『ラスト・デイズ』とカート・コバーンの関係と同じ様なものとして考えればいいのではないだろうか。

そういった疑似史実モノによってソクーロフが描きたかったものは、やはり「孤独」なんだろうか。最高権力者であり、神である「それ」は、誰からも本当のことを話してもらえず、誰とも本当に話したいことを話せない。皆、彼からは自分が聞きたいと思っていることしか聞かないのだ。そのいらだちを抑えて一言「あ、そ」。もし激昂したりすれば誰かが腹を切りかねないしな。いかにもソクーロフっぽい画面、彩度低め、明度低め、イエロー強め、光の粒子が見えそうな画面は、静謐な美しい暗さで、戦争の暗さというよりも、天皇の精神の色だ。悪人でもなく、聖者でもなく、ただ1人の孤独を運命づけられた存在。皇后と皇太子だけがその運命に寄り添っている。孤独とそれを癒す存在を求めることと葛藤とユーモアと、そこにいるのは始めから最後まで、1人の「人間」にすぎない。
自分を「神」として扱わない人々の中でほほえむ天皇の笑顔。それは彼にとって未知の可能性を発見したために見える。

だからこそ、久しぶりに会えた皇后に甘え笑顔を見せるシーンから、自ら変えることができたと思ったその運命が、自分が「それ」である以上永久につきまとうのだと思い知らされるラストの流れは切なかった。救いは、やはりその孤独な手を皇后が強く握りしめていたこと。

あ、ソクーロフってすごいな。って素直に思った。
だって本来、観にくい題材だよ、これは。

直球だけど、ソウルフラワーユニオンの「霊柩車の窓から」を数年ぶりに聴こうと思ったら収録されている「カムイ・イピリマ」が見あたらない。ので、聴けないし歌詞が確認できない。確かこれは、人権を与えられていないんじゃないかなーっていう一家に嫁に行く女の人を歌った歌でございます。どこ行った。

2006年01月04日

『東京ゾンビ』

■ハゲの哀川アニキ、アフロの浅野+柔術+ゾンビという設定を聞いただけでバカ映画だと推測できる1品ですが、実際期待を裏切らず、バカ道を貫く立派なバカ映画でした。新年1作目にありがとう。
■原作は読んだことないのだけど、映画はゾンビ映画の王道設定を利用しまくっていてオリジナルなんてキャラクターだけなのだけれど、ゾンビ映画にオリジナル設定などいらない!と開き直っている感が非常にすがすがしい、立派なB級映画。というか、ゾンビ映画の世界をみんなが知っているという前提に立って作られてるよな、これ。

■浅野さんもアニキも開き直って楽しそうなのが非常に良い。裏を返せば、あれだけのバカを観ながらも、ついうっかりドラマに巻き込まれてしまいそうな、人を呆れさせきらないという技はこの2人レベルだからこそかな。2人の掛け合いはゆるいテンポながらも、かったるさとは無縁です。絶妙の間。
■古田新太の安定っぷりはすごいな。ちょっと名人芸入ってる。そして、楳図かずお王子には特別賞を。頭もいでる?ってさあ。。。すてきすぎ。

■とにかく全体を通して「開き直りによるおもしろさ」とも言うべき空気がみなぎっていて、それが非常に成功しています。バカ映画でただグダグダなものもあるけど、これは違う。あっけらかんとしているところが何となく似ているのだけど、やじきたの畳みかける感じとも違う絶妙なゆるさによる笑い。しょーがねーなーこいつら、といいながら笑いたい人にオススメだ。

2005年12月30日

『チャーリーとチョコレート工場』

■かろうじて映画館で観れたー。よかった。こんな一画面の情報量が多い、というかウンパルンパが多い映画、うちのちびっこテレビじゃ全部つぶれちゃう。
■とにかく一番最初に出てくる感想は、やっぱりティム・バートンてガイキーチだ、ってこと。すばらしき、というのが頭につくけど。話の進め方がややもったりしている感じはあるけれど、とにかく工場の異次元ぶりは堪能しまくれる。超極彩色の正常でない世界。ティム・バートンの映画って映画全体よりもその中の小ネタやグッズに集中しちゃう。あ、ガイというよりオタクなんだよね。細部に細部に入っていっちゃう。それがいいところ。
■ジョニー・デップのキャラ作りは本当にあぶない。あれじゃあ物議を醸しだしてもしょうがない。ジョニー・デップの存在のために子供向け映画ではありえなくなってるよ。また、それがいいところ。
■一番ファンタジーなのは、主人公のこどもが何の迷いもなく家族を選ぶこと。
■完全に作り込まれた世界観のせいか、全体にただよう閉塞感はなんだろう?この画面に映っている他は無だと思わされるような感じ。ここに現れるもの以外の価値観は完全に無いものとして扱われている感じ。ファンタジーというものに対するティム・バートンの微妙にひねくれたアプローチなのかな。ファンタジーであること、映画であることを過剰に実感させる感じ。

■ティム・バートンの映画のラストって雪降ってるの多くないか?気が付くの遅い?

2005年10月13日

『天才マックスの世界』1998

■琴線監督ウェス・アンダーソンと命名したい。
『テネンバウムズ』が自分としては微妙だったとしても、『ライフ・アクアティック』と今作でもうあなたについていきたいと、いや『テネンバウムズ』もちゃんと見直しますと、ごめんなさいと、誰にともなく意味もなく完全降伏させて下さい。
■おもしろすぎて悶え死ぬ。切なすぎて、嬉しすぎて、ほほえましすぎて、うらやましすぎて、あり得なさすぎて、見てられなすぎて。『ライフ・アクアティック』で感じた泣き笑いの感情そのままを反復。これをほほえまずに、泣かずに、観られるかっての。むしろ、この感覚を『アクアティック』のような大作でそのまんま再現できるウェスさん、改めてすごい。反復、ループ、ウェス作品群はぐるぐるぐるぐる見直し回すのが正しいのかも。いまなら4作品だけだからいくらでも観られるし。
■ウェスさんに年齢の差など意味がない。マックスvsマーレイの闘争が面白すぎ。ていうか、こどもマーレイがいいんだな。ウェス作品のビル・マーレイってきらきら輝きすぎで生き生きしていて見ていて幸せになる。
■マックスの眉毛がギャラガー兄弟超えすぎですから。
■マックスのように天才過ぎて成績はだめだめって素敵。そんなやつがちょっぴり大人になる過程を見るのも非常にほほえましい。
■やっぱり音楽がよい。
■観終わってすぐに勢いで書くとこんな言葉しか出てこない。単語症。深読みしようと思えば示唆的なネタは山ほど転がっているにせよ、そんなものは下敷きにしてふわりと浮いているような浮遊感を楽しみたい。

■クドカンに似てると言ったらウェスファンに怒られるだろうか?もちろんウェスさんのほうがずっと上手いんだけど、方向性というか、嗜好性というか、琴線の線が近しい気がする。

2005年07月16日

『茶の味』2003

■「山よ」の歌で話題になってた映画を見てみた。悪くはないし、嫌いでもない。でも143分は無しだろ。
■ぬへへ、という気合いの抜けたあいまいで間抜けな笑顔を浮かべながら観るのにふさわしい。
■石井克人監督の映画は初めて見たけど、まあ薄々感じていた悪い予感は当たっていた、と言うべきか。すぐれたCMディレクターやPVディレクターは映画監督に進出しがちだけど、そういう映画は大抵ダメだという偏見を持っているわけで、それは以前に何かの感想でも書いた気がするけれど、尺の違いを扱いきれていない感じがするんだよね、この映画も。2,3分に印象的だったりインパクトのあるシーンを詰め込む技に特化している人として、一つ一つのエピソードはいいし、雰囲気作りもいい、でも映画全体としてはだめ。「深夜のちょっと変わった30分番組」でやっていたエピソードを全部つなげ合わせて映画(の長さ)にしてみましたっていう映画だ。
■おもしろくないとは言わない。これが90分にまとまっていたらきっともっと好き。

■じじい(我修院達也)が思いの外いい感じで見直してみたり。なんであなたは三角定規なの??♪はじめくん役の子の、すばらしく間抜けに幸福に輝く素敵な笑顔がとてもいい。
■うーんだから、パーツを思い出すと悪くないんだよねえ、パーツは。

2005年07月06日

『Dreamers』2003(爆音)

■爆音で見ていい映画。爆音4作品でコレを最後に持ってきたのはやられた。爆音で聴いて脳みそシャッフルされる映画、爆音で作り替えられる映画、爆音で脳みそぼわー映画と来て、最後はただただ爆音が気持ちいい映画だった。

■ベルトリッチ作品は『リトルブッダ』以降の作品から『ドリーマーズ』まで10年分のベルトリッチを1本も観ていないし『1900』だって観ていない私が生意気に言うならば、『ドリーマーズ』の子どもらしい無邪気さとまっすぐさ、映画を愛おしむ率直さにみずみずしさを感じ『革命前夜』を思い出す。あれら大作を撮ったあとのベルトリッチが再びこんな映画をを撮りえたことになんだか感動すらしてしまう。その愛情の表出がストレートで単純なものであればあるだけに。

■ラストシーン、警官隊に火炎瓶を持って挑もうとする2人にマシューは「間違ってる」と叫ぶ。愛で解決すべきだと。ベトナム徴兵を逃れるため(らしい)にフランスへ留学しているアメリカ人、実際に行動しろと部屋で理論ずくめになっている弟テオに言い、あるいは毛主義は多数のエキストラを生み出すのみだというマシュー。異空間、異文化を背負わされた登場人物かと思っていたが、実際には異時間の存在なのだではないだろうか。姉弟との対話の中で出てくるマシューの視点はその時代のものではなく、むしろ後生、その「当時」の結末を知っている人間が持つものの様に思える。異なる時間の人間、そう気づいた瞬間に、マシューは身を翻して去る。その時、顔に現れる絶望感は単に思想の違いではなく、決して交わることの出来ない隔絶感、異なる時間に対する無力さを思わせた。無力を突きつけられ、その空間(時間)から消え去ることしか残されなかったあの顔にいきなり涙がでた。あまりにもかなしい、絶対的な隔絶。交わることを初めから否定されている存在と空間。

■ところで、もしかしたらこの映画の主題なのかもしれない3人の愛の関係は、私には2次的なものでしかなかった。近親相姦の2人は「映画を愛する」ことを体現するためにそこにいた。完全に外界から遮断されても良いほどに2人の間で世界が完結しているゆえに、ただひたすらに映画を愛することができる2人。そして、その時代を私たちに伝えるために遣わされた異時間の人物。実際の所、3人の関係性とか「愛」などはすべて何かを代弁しているものの様にしか見えなかったし、それでよかった。

■で、本当のところを言うと、私がこの映画をこんなふうにおもしろいと思ったのは「爆音」だったからなのではないかという気がしている。爆音でかかる当時のロックに気持ちよく揺さぶられているうちに勝手に映画が進み、ラストのマシューの表情で我に返ったのかもしれない。我に返った私の前でマシューが去っていくと、警官隊はスローモーションで画面をはずれていき、観ていたものが「映画」でしかなかった事を私に知らせて終わる。ネット上でみた評判はやたらに悪かったが、悪いと言われているところはこの映画にとって重要ではないような気がした。たとえ監督自身が「3人の愛」がこの映画の主軸だと言い張っても、わたしにとってこれは監督の映画への愛、あるいは、映画を愛するということへの愛を見せつけられる映画だった。そんなふうにあらゆるものが気にならなかったのは「爆音」マジック、か?

■でも、J.P.レオーの使い方はちょっとせつない。

2005年06月15日

『デーモンラヴァー』2002(爆音)

■バウスシアターの爆音レイト一発目として観てみました。爆音だったよ。しかし「爆音」の感想はまた別途。

■これは、総集編、あるいは長すぎる予告編なのか?話しががんがんぶっとびまくる。シーンが切り替わるごとに話しが変わる。企業間の抗争、企業スパイの話かとおもいきや、女同士の確執、エログロサイトの裏運営、暗黒面に生きる人々、殺人劇、エログロの餌食になる主人公、そして、それらはすべてモニターを通して普通に提供されることなんですよ、といわんばかりのオチ。8時間を2時間にまとめたような印象、要するに詰め込みすぎ。さらに捨てキャラ多すぎ。意味ありげに長回しで撮っておいて出番それっきりかよ!捨てエピソードも多すぎ!風呂敷広げちゃったなあ。作り手は「やりたいこと全部やってやった!」とガッツポーズすらしてそうですけど(勝手な推測)。
■接写多すぎ。画面動きすぎ。一瞬の停止さえ恐れるかのように動き続けるカメラ。それが話しの展開同様、この映画の視点を見えなくさせている。
■中身は濃い。日本のエロアニメとか、エログロサイトとか、作り込むべき所は手を抜かずきっちり作り込んでいる。それだけに話しを詰め込みすぎてなんだかよくわかんねーなー、緊迫感だけで持っていこうとしてないか?という残念な映画に出来上がっているのはまあ、残念としかいいようがないか。

■しかし、なぜこれが爆音4本のうちの1本として選ばれたのか。ソニック・ユースが音楽担当だからか?ではなぜソニック・ユースはこの映画に力を入れたのか?ネット世界、裏世界の捉え方の問題?夢に落ちていくようなつかまりどころのない感覚を描く?わからねえ。わかるのは、もしもこれがもっと出来よく編集されていたら、その意図が私にも分かったかもしれない、ということだ。

■インパクトは強い。昨日の夜は何かに精神的圧迫を受けてイヤダイヤダとうめいている夢を見たよ。中身は覚えてないけど。でも、何だか分からないけど精神的に圧迫される、というのはこの映画そのままかも。
■出来の良い映画ではない、という印象なのだけど、怒る気にはならない。それは「総集編」ではなく、「(存在していない)本編」が面白そうだからかもしれない。各アイテムはきちんと作り込まれているし、描かれなかった部分を観たいと思う。

■あるいは、「爆音」のせいで、もしかしたら映画を3割増し面白く感じているのかもしれない。これほどの圧迫感を受けたのも、そのせいかも。この映画をDVDで観たらもっと怒ってた気がする。そんなわけで、つづけて「爆音の夜にもだえろ」をどうぞ。

2005年05月07日

『ドーン・オブ・ザ・デッド』2004

■いわずと知れた『ゾンビ』(78)のリメイクだが、この手のジャンルは苦手なのでオリジナルを観ていません。なので、リメイクとしてどうなのかは分からない。けれど、面白かったっす。
■怖くないんですね、これ。怖くないっていうのは、怖さを出そうとして笑っちゃう感じになっているとかじゃなくて、たぶんホラー映画として作ってない。極限下に置かれた人間ドラマ、でしょう。ゾンビに直接襲われるシーンは少なく、その合間合間のエピソードの積み重ねがメイン。ゾンビの存在感が薄いというか、わらわらしているだけ。だけど確実に危機をもたらすもの、極限をもたらす何かとしての象徴。
■小休息といったシーン、チェスや人物当てゾンビ射撃などのエピソードもだれることなく、余分な感じがしない。テンポも良い。
■キャラの中で一番ぐっとくるのはベタだけどCJ。初めは絶対的権力者として君臨した彼が、権力を奪い取られることで現実を受け止める冷静さを取り戻す。おそらくはパニックから来る自己防衛本能、とにかく平常に近い形を維持しようとする事で物事に対処しようとしていた人間が現実を受け入れる。そこの変化がなかなかさりげなくていい。もともと権力者として振る舞おうとした奴だけに気骨はある。負傷者の両手に銃を持たせ、自分はそいつを引きずりながら排水溝を走るシーンが好きだ。ラストの男気には素直に泣ける。

■卑怯な人間やどうしようもないのはいても、完全な悪人がいないのは悪人になっている状況じゃないからなのだろうけど、絶望からパニックになる人もいないってのはどうなんだろう。ショッピングセンターに守られているというのはそんなに安心感のあるものなのか?

■ゾンビ達のスピードには『28日後…』を思い出したのだけど、あれよりもこっちの方が面白いかも。今作の、ある意味徹底的な「ゾンビ」無視、「ゾンビ」を象徴としてしか扱わない割り切った態度が逆に良い。

■冒頭のうららかな住宅街でのゾンビパニックはそのまま『恋する幼虫』のラストで使われてますね。コントラストの効いてるあのシーンが一番怖い。

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