2012年12月02日

『ザ・レイド』

たとえば、その競技をあまりよく知らなくても、オリンピックとか世界大会などの中継でトップクラスの選手を見ると、なんかすげー、と口をあんぐりあけて感心してしまうのと同じようなことが、この映画でも味わえる。
てことなんじゃなかろうか。インドネシアの武術だというシラットを思う存分味わえ、というかのような作りのこの映画で、まんまと素人の自分も興奮した。映画の9割ひたすら闘ってるんだけど、ちゃんと銃器と素手のメリハリもあるし、各人の闘い方の個性もはっきりしていて(アヘン工場での警部補と同僚の闘い方とか)退屈する暇もなく。それに、きちんと格闘している手の先足の先まで映されていて、アクションがはっきりとわかるのが快感。
ストーリーは最低限かつベタなのだけど、無駄がなくスパイスを効かせているのにも妙に感心してしまった。ストイック、だがエンターテイメント。男の仁義の世界臭がなんともジョニー・トーぽくもあって。それは自分の好物に結び付けて判断したいだけかもしれないけど。これで途中に食事シーン、たとえば匿われた先で、とかあったらまさに、「クラシック」版ジョニー・トー。
食事といえば冒頭に親玉が麺状の何かを食べてたシーンだけだけど、もはやハリウッド映画の中で出てくるチャイニーズのテイクアウトでもそんなの出てこないってくらいまずそうだったな。
さらに食事といえば、主人公が流しの下からプロパンガス引っこ抜いたのは新鮮というか、あんな高いビルでプロパンなのかよ!ていう驚き。まあ床をぶちぬいちゃうようなビルだけど、これ都市ガス発達してたら成立しないアクションですよね。
インドネシア映画なんて多分初めて観たけど、この映画で言えば他の国のアクション映画に引けをとらないしうえに、シラットをふんだんに使ったことでインドネシアでしか成立しえない独自性も獲得してるんじゃないか。うーん、たぶん初めてジョニー・トー作品とか、ドニー・イェンのアクションを観たときと近い興奮。

主人公は織田裕二、親玉の片腕2名のうちひとりは松山ケンイチ似。て思ってたらやっぱりそれもブログに書いてる人がいらっしゃいますねー。

2010年12月01日

『ラ・ヴァレ』@爆音

音楽系爆音のつもりで観にいったので、ピンクフロイド成分が少ないのにちょっとがっかり。もっとストーリーも何もないような状態のパプアニューギニア景色に、ピンクフロイドが鳴り響く映画だと思っていたのでした。

まあ、それはこちらの勝手な思い込みなので置いておいて。ストーリーは普通のヒッピー映画だった。ブルジョア女性がヒッピー化したり、精神文化を求めたり、無邪気に現地文化に同化できたわといってみたり、西洋の文明で育ったぼくらにそれは無理だと言ってみたり。青くていけ好かなくて気恥ずかしい。

パプアニューギニアの景色やマッドメン、祭りのメイク(の特にメイク過程)、若い女性(おそらく非経産婦)の輝く円錐形の胸、撲殺されるぶーちゃん、そしてトリップしたり美脚をさらすビュル・オジェなど、観ていて楽しいものはたくさんあった。
ビュル・オジェがずいぶんいけ好かない感じのブルジョア女性で、『カンヌ映画通り』で「ビュル・オジェ」を初めて個別認識したせいでそのイメージが未だに抜けない私としてはたいへん新鮮。

2008年09月18日

『ホウ・シャオシェンのレッドバルーン』

しみじみと臓腑に沁みる。
何も起こらない。ずっと観ていたい。

『珈琲時候』でまぎれもない東京が、「ホウ監督の東京」になっていたように、パリっ子も、これはまぎれもないパリなのに「ホウ監督のパリ」だ、と感じただろうか。
きっとそうなんじゃないだろうかと思ったのは、ソンちゃんが初めて現れる街角にある雑貨屋の、店頭に溢れる雑多な品物達の鮮やかな色彩を見て。

適度な乱雑さや鮮やかな色彩がホウ監督の特色というわけではないはずなのだけれど、そんなふうにふと現れる「生活」の中に、あ、これはホウ監督だ、と思う景色があるんだよな。

ここではなんと言っても主人公の家の中。とてつもなく乱雑で散らかっていて魅力的で美しい。散らかしたあげくがこんなに美しいならどんどん散らかすのに。いったいどうやってこんな空間を作りだしているのか、その魔法をおしえてほしい。
って、『珈琲時候』の主人公の部屋についても思ったんだった。汚いのではなく、うつくしく、その人そのもののような魅力を持った乱雑さ。

ソンちゃんの落ち着いた声のトーンが、良く喋るフランス人達の中に置かれると1つの中心点となるのが不思議。ソンちゃんがいることで、みんなの騒々しさも魅力的に見える。

2007年04月29日

『リンガー! 替え玉選手権』

邦題のセンスが…。そもそも「替え玉」じゃないし。

「jackass」のメインが主人公で、障がい者ネタのコメディという情報で観た人は、そのあまりの何でもない普通の青春恋愛コメディぶりにさぞかし肩すかしを喰らったに違いない、単なる普通のコメディ。
けれど、その普通さはもちろん作り手側がもっとも意図したものなんだろう。「普通」こそがこの映画を特徴づける。ケレン味なし、お涙もなしに、健常者である主人公とスペシャル・オリンピック(知的発達障がい者のオリンピック)の選手達との友情を描く。
身近に「障がい」を持つ人がいないので、あくまでもメディアを通した勝手な憶測になってしまうけれど、映画やテレビや本などのメディアを通すことでどうしても「普通」さこそが「特別」になってしまう彼らの日常や個性が、コメディという誇張の中でむしろ、本当に「普通」にみえてくる。
だから観終えた後の感想は「何でもない単なる普通の」コメディ。そのことにしみじみと感動してしまうのは出演者に失礼なことのように思うけど、それでもやっぱり感動してしまう。
そのアイデアが制作者側のふてぶてしさから生まれていようが、真摯さから生まれていようが、そんなことは知らないが、いずれにせよ、そこに生まれている強靱なストレートさに気持ちよく笑うことができる。爽快。

ところで、jackassは観てないんですが、主人公ジョニー・ノックスヴィルの目の下が気になってしょうがありません。あの人はいつもあんなに目の下が黒いんでしょうか。肝臓・腎臓方面が大変心配ですね。

@シアターN渋谷
2005年
監督:バリー・W・ブラウスタイン

2006年11月26日

『リトル・ミス・サンシャイン』

友人からもらった東京国際映画祭のチケットでたまたま観に行った1本。
ロードムービー、家族の再生、破天荒な祖父、意固地な父親、変わり者の叔父、家族に愛想を尽かしている兄、無邪気な妹、事前に得た作品を説明するこれらの言葉は不安をかき立てるものばかり。どれもこれもが既に繰り返し観てきた何かを想像させるもので、この場合、ひょっとすると面白いけど、設定やキャラクターに頼りきって雰囲気だけでなんとなく作品になっているといったものもとても多いのだ、経験上。で、これはひょっとするとの方だった。なぜかとても面白い。なぜ。
話し自体は本当に今さら?と言うほどストレートに長旅でのトラブルを通して家族がまとまっていく様子を描いたものだ。なのにそれが単なる心温まる話しとして収められない面白さを持っている。
一人ひとりのキャラクターが立っているからか。それは確かにそうだけど、それだけじゃない。勝ち組否定だからか。それはちょっと違う。

なぜなのか、結局のところよく分からないままなのだ。ただ、監督の持つ批評性がこの映画にとってとても重要なのだろうと思う。映画を通して監督たち(夫婦なんです)は自分たちの受け入れられないものを明確に伝えている。単なる心温まる話しを描きたいのなら、「消されるテレビ演説」のシーンはいらないはずだ。これは『ランド・オブ・プレンティ』でごく似たシーンが出てきたのでついニヤリとした。監督たちは上映後のQ&Aで人当たりの柔らかさを見せたが、その影に痛烈な批評精神を持っているに違いないのだ。

ちなみに、この映画は勝ち組否定でも負け犬肯定でもない。そういった価値観の否定すらしない。バラバラの価値観を持った家族の誰をも否定しないままに、価値観自体の放棄、違う地平へ一気に飛躍。それが本当にベタにロードムービー+家族再生という形を取って描かれているからこそ面白いのかも。癒されたい人にはむしろすすめない。これはだって、家族という世界で安住するための家族再生の物語じゃないからだ。
ここで再生される家族はそれまでの「家族」とはちょっと意味合いが違うのかも。

この家族たちが素晴らしく良いキャラ揃い。一人ひとり誰をメインに据えてもOK。特に良いのは兄。兄役の子はそこにいるだけで、微かな表情の動きだけで釘付けにさせられてしまう。前半一切喋らないというような特殊な設定で、そういった場合、その特殊な設定が無くなるとインパクトが落ちるような気もするのだが、しゃべり初めてからもまた良い。不思議な魅力を持った子だ。

正月公開されるんだったかな。へたするとまた観てしまいそうだ。

2006年09月25日

『LOFT』

ヘンなえいがっ!
と言い捨ててさっさと忘れてしまうのがこの映画に対する一番簡単で楽な方法だろうな。だって変な映画だから。何映画なのか括れないから。しっくりこない感じ、齟齬感、居心地の悪さ、モヤモヤ。それらをもってこの映画つまんねえというのは簡単だろうが、果たしてそうやって切り捨てられるかと自分に問いかければ否。
だっておもしろいんだもん。
ここがこの映画の困ったところだ。面白いと思いながら、人に迂闊に薦められない。齟齬感。置いていかれるような、そうでもないような。ただ観ていることを許されないような。つまり、黒沢清ファンとしては黒沢節絶好調!ということになる。「絶対に成熟しない黒沢」の黒沢節ってどんなんだ、っていうのもあるけど。…あぁほら、全然説明できない。文学界の阿部+中原対談読めばいいじゃん!て、放棄。

ええとね、この映画はスリリング。お話がというよりはシーン1つ1つ、その瞬間瞬間に「どのように」モノが映し出されるのかということにおいて。ストーリーとしてのホラーもサスペンスもそこには必要がないかも知れない。そこに映し出されているもの、それがなぜかゾクゾクするような興奮につながるのだから。そしてそれがそのまま映画を観ていることの興奮につながるのだから。

ストーリー的には、女は怖い。男がヒドイ目に合う映画と見る向きもあるけど、女だってヒドイ目にあってるし、それよりはただただ女の生物的なずるさが怖いのではないかと。

あと見所としては、きれいな中谷とタールゲロか。
なぜかその組合せで中谷さんがよけいキレイに見えちゃうのは困ったものです。

黒沢監督インタビューでも読んで興味を持て。いや、持って。

(↓以下、内容についての記述あり↓)
ネタバレアリ↓

2006年07月22日

『ライディング・ジャイアンツ』※爆音

giants.jpg
10日@爆音バウス

観てからだいぶ時間が経ってしまった。
やっぱりサーフ映画&爆音の相性はすさまじく良い!と感じた1品。
怖くなるほどの波の音に被さる爆音ロック。
身を委ねて、ただ思考を麻痺させて、何の役にも立つわけでもない命がけの遊びを極めた人たちのかっこよさに胸をうずうずさせることの快楽。

冒険家や登山家と同じように、未知の世界に挑んでいく「人間」、同じ人間でありながら一部の人たちにしかたどりつけないところに到達する人たち、けれど同じ「人間」であることが、私達の血をたぎらせると同時に、その生身が対峙しているものの途方も無さを見せつけてくれる人たち。

そこに意味があるかどうかは愚問だねー。
魅せられた人に魅せられる。

それにしてもジェットスキーとセットになってやる沖でのサーフィンはすさまじすぎるよ。

爆音でこそ、波の恐ろしさとかっこよさを体に響かせて、スクリーンでこそ、立ち上がる波のしぶきの1つ1つに見惚れて、やっぱり楽しい爆音でした。
といいつつ今回サーフ爆音はこれ1本。
もっと観れば良かったな…

2006年07月02日

『ランド・オブ・プレンティ』2004

美しく優しい物語。
そこには希望があるからだ。
監督がコメンタリーでもインタビューでも繰り返し口にする言葉、
レナード・コーエンの歌詞。
「いつかこの豊かな国の光が真実を照らしますように」

その希望がやさしさを生むんだろうか?
ポールに対してさえも?

真実とは、今見えていない真実。
今本当は見えているのに、見えないフリをしている真実。
そして多くのアメリカ人は知らされていない真実。
「世界で最も取り残されている人々」そう監督は言う。
非アメリカ人でありアメリカに住むヴェンダースが見てきたもの。
「最も哀れな、何も情報を持たない人々」それが大多数のアメリカ人。

驚くほどストレートに911に言及しているのは監督がアメリカ在住非アメリカ人という視線を持っていたから可能だったのだろうし、そうすることを非アメリカ人として背負い込みもしたんだろう。アメリカを愛する非アメリカ人として。

16日間の撮影と、50万ドルで作り上げたという過程を聞けるコメンタリーはすごくおもしろい。わくわくする。
聞けて、なるほど、と思ったのがカメラ。
ほとんど三脚を使わず手持ちで撮影したものだそう。
なんだか不思議なゆれが気持ちいいのだ。特にユスフの部屋での3人のシーン。でもあくまでドキュメンタリー風にならず、それ重要。あくまでもブレではなく、揺れ。
それだけじゃなく、監督コメンタリーを聞きながら映画を観ていたら、カメラの果たした役割の大きさを実感できておもしろかった。この映画に流れる「希望」を認識させるに必要な「親密さ」を表現する映像、それがなければこの映画は単なる政治的な作品になってしまったんだろう。

ヴェンダース作品は好きだったりそうでもなかったり微妙だけど、これはとても好きだ。あまりなストレートさが愚直にならず、嘲笑にもならず、希望だけを歌い上げる。そんな作品がこんなふうにおもしろいなんてすごい。

ラナがとても透明感がある美しさで素敵だ。まっすぐなのに押しつけがましくない。いろんな価値観があることを知っている人の物腰。
ポールは受け入れられない思想の持ち主なのに決して憎むことはできない。そういうふうに描かれている。
カエルジャージのユスフ!素敵だー。なんだその体に合ってないジャージは。なんだその人を疑わない笑顔は。それでいて卑屈ではない彼に好感を持たずにはいられない、そんな人。

何でこんなにも視線が優しいのかとふしぎになる。
怒りの思いが視線の優しさと共にあり、批判ではない希望の物語を作り上げている。
そんなふうに思った。

音楽もすごくいい。ヴェンダースらしい音楽、かな。
若いよ、感性が。


ああ、このやさしさはどうしたって『アワーミュージック』も思い出させる。
みんながやさしさと率直さで911後の世界への希望を表現しているのに。
バカとバカの子分達は今日もうすらバカ笑いを続けてるんだ。

2006年05月17日

『理由なき反抗』

ニコラス・レイ暗い。
でもおもしろい。
ジェームス・ディーンおでこにシワ寄り過ぎ。
でも純粋すぎる主人公に違和感無し。
すごくきれい。
泣く。

シネスコの細長い画面の中でジェームス・ディーンはいつも高い位置に立って見下ろす。そうすると細長い画面がいきいきとする。その「角度」のために細長くなったみたいに。

冒頭の道路に寝転がるシーンがたまらない。
お猿といっしょに横になるディーン。
このシーンだけで主人公がすごく寂しいってことを完璧に説明。
これも細長いがゆえに、余分な要素を排除したうえにディーンの全身をバンと映し出す。クレジットの後ろで。それが妙にかっこいい。

あっという間に観終わってしまった。
ニコラス・レイの映画だから最後まで気が抜けなかったけど、切ないながらも、まだ救いがある終わりだった。ほっとして寝られます。

2006年03月23日

『Last Days』

■ガス・ヴァン・サントの事実に基づく3部作(『エレファント』『ジェリー』今作)に実際の事件を重ね合わせることは意味をなさないと分かっていても、カートの最後がどうだったのか、という先入観を捨てきれないまま観たために、映画としてどうだったのか、判断ができない。少しずつ思い返しながら、この映画は『エレファント』と『ジェリー』を併せ持っていながら、前2作よりもどこかぎこちなく、それは「カート・コバーン」という有名すぎるパーソナリティを選んでしまったせいなのか、あるいは前2作で試してきたことが形式化しないようにわざとズレを持ち込んだのかもしれないなどと考えている。この映画から感じた齟齬感が一体何から来ているのか、うまく捉えられない。

■さて、以下に綴られるものは感想というより妄想であると言った方がいいかもしれない。

■前2作でこれでもかと映された流れる空のかわりに、車のフロントガラスに映る並木。空よりもまぶしく、「フロントガラス上」であるがために木々の向こうには人の顔が映り、視点は落ち着かず、それは流れる空のようにただそこに飲み込まれていくことを許してはくれない。

■1枚の皮膜、あるいはべろりと内側と外側がひっくり返ったような分厚い肉の膜、いずれにせよ外界との間に膜が張られた状態。苦しみを経て、あるいはぼんやりとした不安の先で、ある日たどり着いてしまう膜の内側。膜の内側でなら生きていることができる。膜を破ろうとするものからは逃げる。けれど、膜の内側は息苦しい。叫ぼうとしても、表にでようとしても、膜は自分ではどうすることもできない。膜を破るのではなく、すっと差し入れてくれる手がないのなら、膜を揺すぶられないように分かりやすく隠れるしかない。柔らかい膜の外側にさらに必要となる温室。

■外界とは異質の空間。張られた膜がもたらす静寂。的はずれかもしれないけど、タルコフスキーの静寂を連想した。外界との不通。

■膜の内側で鳴らされる音は誰にも届かず、救いにもならない。『エリ、エリ??』とおもしろいほど対称的に、ここでの音は、不通を強調するだけだ。

■川の音、葉ずれの音、枯れ葉を踏みしめる音、突然耳に響いていることに気づき、そのことによって周囲の静寂に驚くといった種類の音は丁寧に盛り込まれ、余計に膜の内側の静寂が強調される。静寂であるということは音は届いていないということだ。音楽もテレビの音も呼びかけも笑い声も、そこでは響かない。

■ごく軽度のウツ症状でも感じられる外界との間に貼られる膜の感覚。つまり、多くの人がその静寂に親しい感覚を持つ、たぶん。映画として静寂を見せられることに慣れていないにしても。『エレファント』で殺害者と被害者が同じ地平に立つ人間であったように、「絶望のロックスター」と「私達」の境界はあいまいになる。
■ごく普通の、神話でも伝説でもない、皮膜の内側での死。異界での死は実行するもしないも結果でしかその差異がない。やっと、伝説に祭り上げられた男の死は私達の地平に帰ってきたと言ってもいいだろうか。だれもが幾度と無く繰り返した「死によって伝説になってしまったことのくそったれさ」という文脈すらが、ここではまるで無意味。
■その点やはり、他の誰でもなく、ガス・ヴァン・サント監督でよかった、と思う。

■しかし、タウンページのおじさんとの会話は分かりやすすぎやしないかね。とか、おしり女とか、安っぽくなる危険性との微妙なラインでの揺らめきもいくつかあったような。

■なぞだったこと3つ。
1.BOYZ??MENのビデオクリップの意味。
2.ヴェルヴェッツの選曲の意味。
3.「死」のイメージをなぜああ描いたか。ああいう描写はなんだか意外だ。

2006年02月19日

『ジョー・ストラマー レッツロックアゲイン!』

M02


boid爆音@吉祥寺バウスpresents『レッツ・ロック・アゲイン!』は、またしてもboidに大感謝したい体験となりました。

■ジョー・ストラマーのことはほとんど何も知らなかったに等しい。だからこそ、なぜ彼がそれほどまでに愛され、「不在」を惜しまれるのかを知りたかった気持ちがあった。爆音でこれをやってくれるなら行かない手はない。そしてきっと、後悔を味わいと思っていた。「これほどの人をフジロックでちら見ですませてしまったのか」という言葉が見る前に半ば用意されていた。そして、その期待は裏切られなかったが、こちらのちんけな思惑など消しさらわれてしまう映画でもあった。

■かっこいい。それ以上の感情が生まれる隙がなかった。観ながら、爆音に浸りながら、頭の後ろの方で「この人がもういないなんて。もっと知っていれば良かった。生きているうちに聴いていれば良かった。」という思いを構築したがる自分がいたが、今現在受けている刺激に酔いしれる前面の自分にすべてを投げ出すしかなかった。追憶や伝説など吹っ飛ばして、ただ「かっこいい!」って、かっこよさに涙するしかなかった。この人がもうこの世にいないからではなくて、あまりにかっこよすぎるための興奮の涙。
■これは、監督が「伝記というか、彼の遺作のようなものを作ったらどうかというアドバイス」を受けずに、「最初に決めた通りに、音楽についての映画として」作り上げてあげてくれたおかげだ。ここには「物語」は一切存在しない、慎重に排除されている。そのためにこの記録は、ただひたすらにジョー・ストラマー(と、彼の音楽)のかっこよさを放出することになり、観ている側の「間に合わなかった人」は、純粋にJoe Strummer&The Mescalerosのファンになってしまうのだ。なんて罪作りな!

■つまり、なまやさしい追憶の後悔的な感情ではなく、本当に悔しくなってしまった。観ている間はただかっこよさに唖然としていたが、観終わった瞬間から、もうこのバンドを観ることは一生無いし、こんなにもかっこいい人がもういないということが悔しい。観たい観たい観たい!

■ジョーは、どうにもこうにも揺るぎようのない強さと柔軟性とユーモアを持ち合わせている。
■楽屋でのバンドの楽しそうな感じ!のっけの、旧リキッドでライブ終了直後にモニターを観ながら「まだみんな帰らないよ」「もう片づけの時間じゃないの」「もう1曲やる?」「やっていいの?」「よし行くか!」(1名ズボンを脱いで履き直す)のくだりも最高だ!
■ジョーがファンを大切にする姿勢が、単に大切にしないといけないものだから、というんじゃないって感じがにじみすぎ。
■多くのファンに囲まれてサインを3時間し続けることもあれば、客の入りにくい所では、飛び込みで地方ラジオ局に「ジョー・ストラマーなんだけど、今日この町でライブやるから宣伝させてくれない?」とか売り込みに行くし。さらには客寄せのために自分でちらし書いて路上で配るし。「オレはおじさんだけど、バンドには若くてかっこいいやつがいるよ」とか言うな!ふところ深すぎるよ、もう。

■そういうわけでメロメロになったのでした。ついでにというか、非常に重要事項だけど、今回の爆音は音調整完璧!ライブの音がすごくいいぞ。あの音をちゃんと体に音圧がかかる状態で聴いて、かっこよさ無限に増幅。ありがたやありがたや。

■だから観に行ってってば。

2005年09月19日

『ランド・オブ・ザ・デッド』

■まさか自分がゾンビ映画を映画館で観る日が来ると思わなかったよ。
■そんなわけで、怖いもの映画が苦手なので、ゾンビ映画についてどうこう語れる知識も経験も無いのですが、一応この映画を観る前にロメロ翁の前2作は観ました。2作目の『ゾンビ』は名作と言われているだけあって、その緊迫感もサバイバル感もすばらしくおもしろかった!あと、短いスパンで『ナイト??』『ゾンビ』『ランド??』と観たので、ゾンビに対する人の意識の移り変わりが比較できて面白かった。ただ驚愕するところから始まって、それに対抗しようとする世界、それがいることが通常になっている世界。

■で、今作が賛否両論らしいのも分かる。ゾンビものというより戦闘ものなんだよね。圧倒的な武力とバリケードでゾンビの上に立つ人間、一方で意識を持ち始めて、もはや「得体の知れない存在」であることをやめてしまうゾンビ。そこには『ゾンビ』のようなギリギリのやりとりはほとんどない。だからゾンビものファンとしては物足りないのかも。
■でも私にはすごく面白かった。まず90分間1秒たりとも退屈する隙を与えない。エンターテイメント映画として充分におもしろい。やや全体の展開が急ぎすぎているような気もするけれど、盛り込みすぎて拡散してしまうということはなくて、要所々々がきっちり押さえられているのでがっつり引き込まれていく。ハイクラスの生活と底辺の町の生活も、あの短さの中できっちり描写されていてわかりやすい。ゾンビ側にはなんとヒーロー(ガソリンスタンド)とヒロイン(口裂け)が登場し、その心強い仲間(肉屋)までいる。ゾンビのバラエティの豊富さもかなりすてき。
■えぐい描写もちゃんと、きっちり。うえっぷ。

■ただし、娯楽ホラー作としても面白いのだけど、単に娯楽作だと言うには、あまりにも露骨に政治的状況というか、今のアメリカを描いている。もともと前2作もベトナム戦争等への批判が背景にあったというけど、今作は本当に露骨、あまりにもストレート。
■タワーに住むハイクラスの人間とその周囲に住む一般の人々と、「安全地帯」の外にいるゾンビの3層構造はアメリカを取り巻く状況を極限まで単純化して描いている。権力を持つアメリカ人と、権力を持たないアメリカ人と、アメリカに攻撃を受ける人々。
■映画が始まってすぐに、「安全地帯」の外に拡がるゾンビの世界へ「物資補給」に行った軍隊の人間によって「虐殺」が行われる。この言葉は強大な武器でゾンビを大量に殺すシーンで、軍隊の人間が「まるで虐殺だ」とつぶやくセリフで使われている。このセリフを聞いた瞬間に、もはやロメロ監督が今作で「ゾンビ」を「彼岸の何か」として描くことを完全に放棄したことに気がつく(思った)。アメリカ国内で起きた初めての、大量の死者を出したテロという911以降、もはやゾンビ達は彼岸の存在ではなく、自分たちと同じく意識を持った存在としてして描かざるをえなくなったんだと思う。
■怒りを持ち目的を持つ、あまりにも人間に近いゾンビ。だからとてもとても切なかった。ゾンビと人間の相互理解などあり得ない、共生などあり得ない、たとえ両者がひとつながりの存在であっても、完全に異質の存在なのだ。それが今の段階での現実。
■では、「彼らも行き場所を探しているんだ」という主人公はゾンビの理解者だろうか。彼は自分の身を守れるだけの充分な武力を得て「誰もいない土地」という新たな安全地帯に逃げることができる。それ以前は町の人々のために物資補給を続け、そのためにゾンビを殺してきたし、人々を救うために圧倒的な武力でゾンビを一気に焼き払った。しかも物資補給に絶大な威力を発揮する「圧倒的な武器」は彼自身が設計したものだ。
■主人公は友情にもあつく、まっとうな人間代表のように描かれている。けれど、理解者ではないだろう。タワーが無くなったあとに「理想のまち」を作ろうとする人々が「アメリカの中で頑張る人々」ならば、彼は単なる「アメリカ外への逃亡者」であって、ゾンビの理解者ではなく、ゾンビと関係を絶つ人なのではないか。それとも、「圧倒的な武力」と共に誰もいない土地へ消えていく彼は、アメリカから「強大すぎる武力」を排除してアメリカの再生を促す希望の象徴なのだろうか?主人公をあくまで人間として考える場合と、1つの象徴として考える場合とではどうも後味が違う。

■主人公をあくまで人間と考える場合、彼も残る人も、両者いずれの場合にせよ、その先にほほえましい世界が待ち受けているとは思えない。ゾンビが存在することを知ってしまった以上、どこへ逃げようとどのように生きていこうと「ゾンビと人間」という枠組みがある以上、救いはない。ロメロ監督は自分で生み出したゾンビの存在を自分で抹殺したがっているみたいだ。完全なる不理解と非共生の象徴としてのゾンビを。

■それにしても、奥目がちの顔がどんどんメリケン大統領に見えてくるデニス・ホッパーがすごかった。やー、あの貪欲さと権力によって支えられている尊大さと同時にそれらを失うことの恐怖を抱えた小心さの同居した目はすごいよ。もうね、そっくり。もちろんデニス・ホッパー自身じゃなくてね、その演技、というか演技でつくったその目がすごい。

■こんな見方だったので、目の前に見えているものとは違うものも観ているという、娯楽映画に対する姿勢としてはあまり正しくない見方だったかもしれない。ずっと切なくて切なくて涙を浮かべながら観ていた。それでも、ロメロ監督がここまで愚直に描かざるをえなかった状況とその勇気と良心などというものも勝手に想像してしまう。
■でもですね、改めて書いておくけれど、娯楽作として充分面白かった。90分の物足りなさ、あともうちょっと観たいと思うあの感じも大好きだ。

■言われて気がついたんだけど、ゾンビって、ゾンビとそうじゃない人をどうやって区別しているのだ?

2005年07月08日

『レイクサイドマーダーケース』

■おもしろい。すごく。でもこのおもしろさをどう書いたらいいのかわからない。ごく普通に娯楽作として楽しめるのに深くはまってしまったら大変なことになりそうな映画。湖底に沈みかねない。

■お受験合宿の為に湖畔の別荘に集まった3組の夫婦と3人の子ども、塾の講師と、1人の父親の愛人。殺人事件が発生し、お受験のために死体を遺棄する親たち。反対する役所と淡々と仕事をこなす柄本。でもね、事実はいろいろと複雑なのです。常識と良識と価値観の基盤など幻想に過ぎないことをたたきつけられる。

■柄本明と役所広司のコンビというと『ドッペルゲンガー』をどうしても思い出すが、狂気を狂気として自覚しながらもそれを正しいものとして受け入れる強靱さを持った(持ってしまった)ゆがみ気味の人間を演じさせたらもう、柄本明にかなう人がいないのではないかと思えるほどに、この人の狂いを狂いとして見せながらも、狂いと正常の境目などあるのかどうか観ている側を不安にさせる演技はすごい。「良識」という認識の不確実さを浮き彫りにするね、このひと。
■薬師丸さんがステキだったな。あのくりくりに丸い目だからこそ赤い光も灯したくなるでしょう。可愛らしいのに大人のくるしさも醸し出せる大人。
■サスペンスにホラー成分1割。その突然のホラーシーンの登場に「青山さんはきっとホラーやりたかったんだな」とにやにやするものの、そのシーンがこの映画にあるからこそ娯楽作として成立出来ているような気もして、でも逆に娯楽作から逸脱しかねない気もして、とにかくああいうシーンがあることは不可欠と思わせる本筋には必要のないホラーシーンは一体なんなのですか。
■青い光、過剰な光、一瞬の赤い光、過剰な暗闇。
■ストーリー自体は非常にすっきりしないもやもやした暗黒雲立ちこめたまま終わるのだけど、観終わった私の心は晴れ晴れでした。だっておもしろいんだもん。内容に漂う怖さはもちろん感じているのだけど、今見た映画の面白さを喧伝したくなるようなわくわく感にまずは流される。

■しかし、この映画の受けた不遇な扱いにはまったく納得いかない!私にとっては全然興味ないので躊躇しているうちに公開が終わってしまった原因ともなったけれど、原作者の東野圭吾は「ベストセラー作家」と言われる人だし、役所広司、薬師丸ひろ子、柄本明、鶴見辰吾、杉田かおる、豊川悦司といったキャストで製作がフジテレビで、なぜ公開はあんなにひっそりと短期間で終わってしまったのだ。監督と製作サイドの間に何かあったのかもしれないけれど、せっかく作らせた傑作をみすみす埋もれさせてしまうなんてフジテレビはばかだな。もったいないったらもったいない!おもしろいのに!
■そんなわけで、間もなくDVDも出るらしいのでぜひ観て下さい。レンタルでいいですから。ただし、部屋は暗くして。過剰な光と暗闇におびえるためにも。
■あともう、この映画のすばらしい感想群は基本的にここを参考にして下さい。

2005年05月20日

『ライフ・アクアティック』

■ウェス・アンダーソン最高っす!あんたすごいっす!
■少年冒険小説を読みふけって暴走妄想する冒険物語をこれでもかというくらいに見せつけてくれてありがとう!そこ、そこ見たかったんすよ??ていうところ見せてくれてありがとう!わくわくしっぱなしだよ、もう。だってもう、あの船の断面セット、あれだけですでに満杯わくわくです。細かいところで言えば、ビル・マーレイが手に乗ったトカゲをピっとはじき飛ばすシーン、架空の生物だという一点で、そんなコトまでがわくわくを沸きたてる。あれはクレイアニメの実在感だからこそじゃないかな。冒険小説に出て欲しい、ありとあらゆる乗り物も出てくるし。
■観てから数日経っているのだが、思い出すとわくわく成分が脳内に放出されるので文章がまとまらん。



■全編がいんちきくさいのもナイス!あらゆるシーンがB級映画の切れっぱしみたいだぞ。金かけて、真剣なしかも絶妙なバカっぷり。あのチラシの絵面がこの映画を見事に表現してる。
■なにげに好きなジェフ・ゴールドブラムとウィレム・デフォーが2人揃って見られるのも嬉しい。デフォーが常に半ズボンていう設定も似合っていてナイス。それにしてもビル・マーレイ素晴らしすぎ。
■音楽いいし。
■細かいところまですべて「チーム・ズィスー」グッズがあるのがすてき。わざわざアディダススニーカー大写しだし。
■わくわく成分出っぱなしのくせして、沁み入ってしまったりもするシーンも多々。そういうのもひっくるめて「人生」ですから、と納得させられてしまう勢い。ラスト前の赤カーッペトシーンはちょっとねえ、泣くでしょ、あれは。



■前作の『ロイヤル・テネン??』は面白いながらもあと一歩乗り切れなかったくせに、今作は初めて予告編を見た瞬間から全身でわくわくしてたまらなかったうえに、観に行くまでほとんど不安も感ぜず、実際に観てそのあまりの良さに呆然としてしまったというドーパミン出ずっぱり状態をもたらされた。



■いちいち言及したいというか、嬉しくて突っ込み入れたくなるシーンが多い映画ほど観終わったあとに幸せだ。

2005年05月11日

『ルーキー』1990

■イーストウッド監督・主演。縛られたまま女にヤられたりもする当時還暦の人。
■相方がチャーリー・シーンっていうのがいろいろと複雑な気分になる『ダーティ・ハリー』的警官映画。

■イーストウッドは常に亡霊的ということを阿部っちや蓮実氏あたりがよく書いている気がするのだが(すいません、文献手元に無し)今までは、まあそんなもんか、と思っていた。『許されざる者』などの唐突性とか言われてみれば確かにそうなんだけど。それが、久しぶりに観たこの映画で「亡霊説」、我が意を得たり!となった。この映画ではイーストウッド、生き霊となってチャーリー・シーンに憑依します。映画後半、イーストウッドが犯人グループに捕らえられて身動き取れなくなってから、それまでは「腕はあるけどぺーぺーのお育ちの良い僕ちゃん」だったチャーリー・シーンが、前半のイーストウッドのむちゃくちゃぶりをさらに加速させて殴る蹴る燃やす壊す脅す。トラウマを吹っ切った成長物語というより、動けないイーストウッドに乗り移られている、としか思えない豹変ぶり。

■映画の最初と最後のシーンが同じシチュエーションで反復される。このお約束的な差異と反復の気持ちよさにうっかり騙されかけるが、その前のシーンで腹を撃たれて意識を失ったイーストウッドが、ぴんぴんして警部補にまで昇進している姿は『シックスセンス』のオチにつながるんじゃないかと疑いたくなる。もしかしたら最初の事故のシーンから死んでるのかも。
■ホラー映画的に見れば、この映画はイーストウッドが生き霊から本当の亡霊となる話しだ。そしてチャーリー・シーンはイーストウッドのいたこになるわけだ。差異と反復を繰り返し、イーストウッドは永遠に生き続ける。『マルコヴィッチの穴』的に。

■常に手元に無い火、犬に襲われ続けるチャーリー・シーン、冒頭とラストのシーンなど、差異と反復に充ちたこの作品は、実は主人公自体の反復の物語、なのかもしれない。と、適当なこと言ってますが。

■ごたくはともかく、犯人捕まえるために町中に被害をもたらすような警察は実際にはいてほしくない。こわいっす。

2004年12月12日

『リオ・ブラボー』1959

■とにかく面白い。ほんっと面白い。娯楽作という言葉はこういうものの為にあるんです。
■一切、何の引っかかりもなく、ただただ面白いと思って観てたら映画が終わった。

■娯楽作キング、ということ以外に私の中でさすがのハワード・ホークス、と思うのは女性の描き方。気の強さ、弱さ、女らしさ、愛情の純粋さが溶け混じっていてステキ。そして、典型的西部劇という男くさい世界でありながら、女いらないでしょう、と一切思わせないからませ方。男世界を描いていながら、男だけの世界ではない感じ、うまく書けないけど、ホークスのこのバランスのとれっぷりがすさまじくいい。
■保安官と有力者との抗争という、ラストはたくさんの死体が予測されるような筋書きをまるっきり裏切る爽快なラスト。ダイナマイトの爆発っぷりに集約されているような、あっけらかんとした明るさが良い。良すぎ。

2004年12月11日

『ルナ・パパ』1999

■牛が…
■屋根が…
■「バフティヤル・フドイナザーロフ」という日本人にはとことんなじみのない語感の監督の名前を空で言える自分もどうかと思うが、このタジキスタン出身の監督が作り、現在ビデオで観ることのできる3作品のどれをも好きでたまらないのだ。
■好きすぎるせいか、この映画が「キテレツ」すぎるせいか、うまく感想が書けない。この作品を初めて観たときは大物の「キテレツ」に気を取られて他の部分は記憶から飛んだ。今回観たのは3回目だが、観れば観るほどあらゆる部分がおかしい。それがまた良い。

■好きなところ1.景色。なだらかな丘陵がつづく乾いた土地とその間に拡がる湖、水路。この映画はかなり大がかりなセットも使ったようだが、他の2作品から推察するに、この二つはタジキスタンの景色の2大要素なのかもしれない。妙に美しく、その場に立ってみたいという欲望をかき立てられる。
■好きなところ2.主人公の女の子。昔の宮沢りえを彷彿させる顔立ち、生命力に溢れ、自分の情熱で常に体が破裂しそうになっているこの主人公がとても好きだ。新しいドレスを身につけ車の上で踊るシーンは、この映画の宣伝でよく使われたようだが、やっぱりとにかく美しい。夫のない妊娠を決して認めない土地で、行きずりの男に妊娠させられてしまう彼女には、既に母の早逝、自分が飛行機となって悪魔と戦う「あほ」の兄といった不幸を抱えているのだが、あまりに生き生きと動く彼女には不幸という言葉がまるで似合わない。それだけに話が進むにつれて追いつめられていく彼女に心が痛む。
■好きなところ3.キテレツ。流れ弾とか牛とかいきなり襲われるとかその他もろもろ。
■好きなところ4.現実感。キテレツファンタジーでありながら、内戦事情を盛り込む。一方的なモノの見方による他者(あるいは共同体の掟を破ったことにより他者になった者)の排除への批判をベースにする。

■けれど、一番好きなのは作品全体に流れる視線のやさしさかもしれない。「心の狭い人々」を批判する一方で描かれる、家族や家族になろうとする人たちの主人公を思いやる気持ちの果てしないまっすぐさ。そんなやさしさがこんなキテレツによって(キテレツとともに、というよりは「によって」と言う方が正しい気がする)描かれていることの驚きと、そのキテレツが頂点に達する、何度でも泣き笑いしながら呆気にとられながら観たいラスト。分かっているのに観るたびに、そうくるか!とつっこみを入れずにはいられないのだ。何かすがすがしい気持ち、あるいはやさしさの涙とともに、だ。

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