2006年07月19日

『はなればなれに』1964

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17日。BOW映画祭@シャンテ

ゴダールは時々おしゃれ過ぎてむっとする。むーっ!てジェラシー。だってかっこいいものをかっこよく撮ってるだけで映画になっちゃうなんてずるいじゃないか。そのかっこよさが、なんの模倣でもなくフォロワーも許さないなんてずるいじゃないか。絶対に努力じゃ手に入れられないものでそんなにカッコイイ映画を作るなんてさ。きーっ!

と、まくし立てたくなる衝動にかられる。
完全にジェラシー、ねたみ、手に入れられないものへの憧れの反転。
要するに好きなのだな。
でもそれを認めるのがくやしいの。

その一端はアンナ・カリーナのせいでもある。
素敵にかわいすぎるんですもの。
目が大きすぎるんですもの。
立ち姿がきれいすぎるんですもの。

スクリーンでアンナ・カリーナを観たのは初めて。
うっとりしますよ、そりゃ。
3人が踊るシーンはアンナに釘付けですよ。

「ルーブル美術館駆け抜け大会」のシーンはやっぱり強烈。30年を隔ててもベルトリッチが『ドリーマーズ』で使いたくなるわけだ。
「1分間の沈黙」もそうだけど、作品の全体がいたずらっ子がものすごく生き生きといたずらやってるみたいな印象。とにかく隙あらばいたずらを仕掛けてくる。

だからなんでそれがこんなにかっこよくおしゃれに仕上がるのだ。

それと似たことをやってしまった人間が羞恥を味わうはめになるような。オシャレの「紋切型辞典」か、これは。とはいえ、羞恥も感じずにたくさん模倣されてきてるんだろうな。

でもそれは模倣である以上かっこよいものとしての強度は得られない。

初公開時のHP残ってました。
予告編が観られます。

2006年01月29日

『ホームワーク』1989

■これは、奇跡のような瞬間を見ることの出来る映画です。
■これも以前にビデオで観ていて、今回初めてスクリーンで観た映画。ただひたすら、宿題を忘れた小学校1,2年のこども達に、なぜ宿題をやってこなかったのか、宿題についてどう思うかをインタビューする様子を映し出すだけの、動きの少ない地味な記録映画である。一見は。
■けれど、なぜこれほどに自分はこの映画に見入ってしまうのか、なぜ退屈する隙がないのか、今回スクリーンで観てより強くそういう思いをし、その理由も大きなスクリーンであからさまになった。それはなんのことはない、ひたすら映し出されるこども達の表情こそが観る人間を惹きつけているんだ。
■キアロスタミに撮らせた子どもは最強だ。次から次へと現れるこども達はどんな仕込みでも決して揃えるのが不可能なバラエティさに満ちていて、観ている側は、次はどんな子が現れどんな受け答えをするのか、興味津々で待ちかまえるはめになる。大きなスクリーンではそのこども達の微細な表情の動き、極端に言えばまつげの震えまで、が見え、それぞれの持つ表情の豊かさに圧倒される。これはビデオでは味わえなかった感覚だった。

■こども達のあどけなさに反して喋る内容は過酷である。宿題の多さやベルトで叩かれるなどの罰を受けるこども達が多い反面、ごほうびを知らない子も多いといった、学校と家庭両面における教育のありかたの問題がこども達の答えによって明確になり、その集積点とするかのように神経症の子どももでてくる。ひどく罰を受けたために、先生が教室に入ってくるだけでも泣き出すようになってしまった子どもは、インタビューのために撮影隊がいる部屋に一人で通されただけでパニック状態を起こしてしまうし、友だちが一緒にいてくれてもまともに喋ることもできない。両親からも教師からも無能だと烙印を押されたまだほんの小学校2年生の子ども。
■その痛ましさに怒りと悲しみと居心地の悪さを感じていた瞬間、唐突にそれは起きる。一瞬、呆然とし、何が起きたのかを理解した後には涙が溢れるにまかせるしかない状態。あれは、奇跡のような瞬間だ。一度観て知っていて、もうすぐその瞬間がやってくると待ちかまえていたにもかかわらず、その瞬間にはやはり呆然とし、圧倒されるしかなかった。いや、何度も言うけれど、スクリーンで観ることでそれはもっと強い力を持って私を呆然とさせる。

■観終わった後には、子どもを実際に追いつめるキアロスタミの残酷さと(彼は子どもに演技で感情を作らせない。不安な演技をしてもらいたいときはスクリーンの外でも子どもが不安になるような状況を作り出す。)、子どもにウソをつかせないことによって子どもの持つ素の魅力をあからさまにしようとするキアロスタミの優しさ、そしてなにより本来は不可能だとしか思えない、そういったこども達の姿をスクリーンに焼き付けること、を可能としてしまうすごさに圧倒される。まったくなんて人なんだ。巧妙に虚構を配しながら、しかし、まったくウソのない感情を撮ってしまうなんて。
■あの奇跡を奇跡としてスクリーンに焼き付けてしまうこともまた奇跡という二重構造の奇跡。それにしても本当にね、コレをスクリーンで観られてよかった。


■ところで、これをスクリーンで観たのは予定外のアクシデントです。本来は同じキアロスタミ監督の『トラベラー』を観に行ったのですが、劇場側が間違えて『ホームワーク』を用意しちゃってたんですね。上映始まって5分以上経ってから「ごめんなさい!やっちゃいました!」と劇場の人が入ってきたときには劇場内に笑いが溢れました。招待券の発行+2月下旬に改めて『トラベラー』の上映という対応に不満無し。むしろアクシデントにより、タダで『ホームワーク』を観れたということになるので、ありがとうございますの気分。みなさん、ユーロスペースは良い映画館です、よと。
■スクリーンや設備といったほかに、ちょっとしたトラブルや他の人たちの反応も楽しめたりして、やっぱり映画館には行くものだと、つくづく思った2週間強前でした。

2005年12月02日

『プライベート・ライアン』1998

■笑っちゃうくらい、というか笑うしかないくらい人があっさりバタバタと死んでいく冒頭の上陸シーンがすごいよと聞いたので観てみた。
■あー、こりゃすげえ。とにかく人がどれだけ簡単にあっさり死んでいくかをひたすら映し続ける。たぶん2時間このままで作りたかったんじゃないかと思えるくらい力の入った大量殺戮っぷり。ほんとに、あとのお話は娯楽作として成立させるためにくっつけただけなのではないか?とにかく監督が撮りたかったのは人があっさりと、いくらでも死ぬ様なんだろうな。

■しかし、170分飽きずに観れるのはさすがか。
■マット・デイモンが若いなー。歯が白すぎるのが気になったっす、妙に強調されているような。「若造」という記号としての白い歯?

■『シンドラーのリスト』と終わり方が同じなんだね。現在生き残っている人間が死んだ中心人物の墓を見舞う。この終わり方は映画としては非常に鈍くさくて野暮ったい。それでも敢えてそこを描くのは、過去ではなく現在に連なる話だという強調のためなのか、あるいは既に死んでいった者の話(終わった話)だということを強調して起こりうる反発をかわすためなのか。その両面性を持っている気もする。とにかく、ラストのシーンは「映画」のためではなく、映画の外側に対して向けられてものなんじゃないかな。だってほんとにいらないもん、とにかくお話をここで終わらせますよといった付け足しのような後日談。

2005年11月26日

『ホワイトハンター・ブラックハート』1990

■『アフリカの女王』撮影時のジョン・ヒューストン監督のエピソードを元に作られた映画、という予備知識なしに観たとしたら、「いくらなんでもこんな奴いねーだろ」と思ったに違いない。ジョン・ヒューストンてそんな人!?あのね、自由すぎます、この人。『アフリカの女王』も観ないとなー。
■利己的で決して自分を曲げない、差別主義的な奴には男女問わず闘いを仕掛ける。怖れることを嫌う、屈服することを嫌う。それでも「始まりはいつも同じ」の「ホワイトハンター・ブラックハート」「白人のハンター・悪魔の心」。結局、自分も当時(1951)、いわゆるアフリカにやってくる白人でしかあり得ないと知らしめられた直後の、イーストウッドの「アクション」の一言がすごい。あんな「アクション」、聞いたことない。感情のすべてを肩代わりする一言。
■他の映画には見られないほどイーストウッドの笑顔が多い。それが主人公の自信と傲慢さを表している。あとよく喋る、すごくよく喋る。これもめずらしい?
■90年当時、もう充分じじいに見えるイーストウッドが今も変わらず元気にじじいなのが不思議だ。怖いぞ。永遠に元気なじじいで居続けそうだ。いて欲しいけど。
■これが最後の「ハリウッドのアフリカ映画」なのかな。もうこんなアフリカ映画撮れないよね?90年当時だってそうだったと思うけど。90年にコレを撮ってるイーストウッドがすごいわ。

2005年11月24日

『ブラザーズ・グリム』

■娯楽作。どこを切ってもテリー・ギリアム。こってり。でも全編通して画面の色調は暗いというゆがみっぷり。あ、女王の間だけが美しく輝くようにという演出か。でもテレビじゃちょっときついですよ、この画面の暗さは。そういう意味で映画館で観ておくべき作品かと。
■面白くないか面白いかで問われれば面白いと答えるのですが、面白いよこれ!と自ら言う程でもない。もともとテリー・ギリアムの映画はちょと微妙。モンティ・パイソンフリークとしては無条件に擁護したいのだが、あまり進んで観る気になれない。食傷気味になっちゃうから。おれ『バンデッドQ』が一番好きかも。
■しかし、なぜ今グリム兄弟なのかなあ。思い切りゴテゴテ出来る世界を探してたらフランス統治下のドイツに行き当たったというだけなのだろうか?面白くないわけではないモノの、何とも印象に残らなそうな映画だ。

■イタリア人の拷問担当の登場シーン(画面前面に斜めからアップでイン)が『ミーニング・オブ・ライフ』中盤を知らせる手の長い人を連想させて笑った。というか、フランス人のおちょくり方がモンティ・パイソン気質入ってるよ、イギリス人じゃないのに、ギリアム。

■そういいながら、もう一度くらいはテレビかビデオで観てしまう予感。テリー・ギリアムのこの微妙な感じってなんだろうなあ。

2005年06月12日

『be found dead』2004

■果たしてこれを映画と言っていいのかどうか。遊園地再生事業団の「トーキョー/不在/ハムレット」のプレ公演の一環として作られたこの作品は、4人の監督、5話のオムニバスとしてつくられており、その内の第3話と5話が宮沢章夫氏、4話が『亀虫』の冨永氏によって撮られている。
■私自身は舞台を見てしまっているので何とも言えないが、「トーキョー??」をまるで知らない人がこれを見たらどう思うのだろう?1年かけての、リーディング、プレ公演、映像、本公演という一連のプロジェクトの一環としてではなくこの作品を観る。実際に短編映画祭などに招かれているからそうした状況で観た人も多くいたはずなのだが、不可思議な短編集、実験映画の一種として捉えられたのだろうか?

■素直に面白いと思えるのはやはり「本職」である冨永氏の第4話。というか『亀虫』と作り方がおなじである。しかしそうなると、笑わずにはいられない畳みかけるような独白は『亀虫』の方が上なので、なんだか本人による2番煎じみたいな感じがする。
■おまけで入っていた宮沢×松尾スズキ対談で宮沢氏も言っていたのだけど、「舞台役者」と「映画役者」の体はどうも違う構造でできているようだ。1話2話で感じる気恥ずかしさは演出のつたなさ以上に、舞台の人たちをそのまま映像に入れてしまった場違いな雰囲気のせいに思える。あらゆる場所を移動し、ちいさな呼吸までを聞かれる事に慣れていない「演技する体」の演技。
■だからこそ、構成としては5話の中でもっとも演劇的である、第3話の1場劇の方が演劇を映像で観てしまう気恥ずかしさを感じずにいられるのかもしれない。無理してないから。あと、私がとても好きだった舞台「砂漠監視隊」に調子が似ているのだ。ただひたすら愚にもつかない、答えの出ない会話を繰り返すだけのぼんやりした人々。

■もっとも演劇的な、空間と視点の固定をされていながら、その演劇性が気にならない3話。移動し続けるものの、その演劇臭さ(あるいは小劇場臭さ)がどうにも気になってしょうがない1話2話。第4話は映像の人があえて演劇的な振る舞いをすることの、1回転した面白さ。第5話は、『ユリイカ』+「世界の車窓から」。

■再び宮沢さんが映画を作るなら、第3話のような、というより「砂漠監視隊」のような映画が観たい。細かな音、空気(湿度、光、風)、質感などをはらんだ1場劇。それは演劇ではなく映画にしかできないことだ。

2005年05月23日

『ブラッドワーク』2002

■地味ながらはずさない「きちんとした」面白さ。クリント・イーストウッドという優れた監督であり、優れた俳優の映画でありながら、あわやお蔵入りの危機を乗り越えたものの2週間限定公開という憂き目をみた作品。メジャー系配給会社はみんな怠慢だ(受け売り)!
■サスペンスの形態を取っているけれど謎解きをメインに持ってきている作品ではない、のは見れば明らか。うすうす犯人が分かってもいいんです。

■弱者としてのヒーロー。
この映画でイーストウッドはこれでもかというほどに老いを顕わにしている。しわだらけの顔、緩んだ腹、よろける足、かすれる声。さらには心臓移植後のために薬漬け。それでも「強さ」は失われない。ていうか、単純にかっこいいっす。
■味方は女性と子どもだけ。
突出した人間は、同性からはねたみかゆがんだ愛情しか受け取れないとでも言いたげな設定。心臓までもが女性のもの(男性の心臓がイーストウッドの元に届くことはない)。一度リタイアした男は、強い女性たちに支えられて力を取り戻していく。郡警の女性、女医のアンジェリカ・ヒューストン、ヒロイン、皆タイプが違うながらも強くて知的で魅力的。

■ドーナツはアメリカ警察の永遠のアイテム。
情報をもらいに市警に行くときに大箱でドーナツの土産を持参し、「食べないならオレが食う」とむしゃむしゃ食う。結局大人の男3人でにらみ合いながらむしゃむしゃ。その無駄な間がとても良いのだが、これは「アメリカ映画」たらんとしてのアイテムなのだろうか?
たまたま『ルーキー』を観たばかりなので気が付いたこと一点。『ルーキー』では、前半部、チャーリー・シーンが張り込み時に持ち込んだドーナツを「なんだこりゃ」とはねつけながらも苦虫顔で食べるEWが、ラストでデスクにふんぞり返る時にはデスクにドーナツ常備。一方のチャーリー・シーンは葉巻をくわえる。そういう小ネタの伏線の張り方がとても好きですが、これに意味づけするならドーナツが組織内の人間として振る舞うことの一つの象徴として扱われているのかも。もっとも亡霊説を繰り返すならやっぱりチャーリー・シーンがEWに乗っ取られた事の証拠の一つなのだけど(しつこい?)。
警察+ドーナツといえばどうしたって「ツインピークス」が出てくるが、それほどまでにその二つの組合せはアメリカ人にとって「当然」なんだろうな。すでに記号と化している「ドーナツ」の、イーストウッド映画における役割はなんだか奥深そうだ。チェックアイテムかもしれない。

2005年04月13日

『ヒズ・ガール・フライデー』1940

■毎度どうにもハワード・ホークス作品に対する感想は、おもしれえ!一級品!としか書きようがない。はああ、面白かった。
■これぞスクリューボールコメディな展開の早さとキレ、だけでなく主演2人がスクリューボールと化してる。のっけからのケイリー・グラントとロザリンド・ラッセルの早口掛け合いもすごいが、ロザリンド・ラッセルが怒って電話口に向かって一気にまくし立てるシーンがすさまじい。どんだけ早回ししてんだよ、と言いたくなるほどの舌の回転。それでいて無理している感じがしないというすごさ。

■ハワード・ホークス作品の女性達はいつもとても強くて、意識的であれ無意識的であれ男と対等に渡り合ったり手玉に取ったりするのだけれど、それと同時にとても強く女性らしさを感じさせる。今作でも、元新聞記者である彼女が仕事の勘を取り戻すにつれ、どんどん女らしさというよりはたくましさ、芯の強さが前面にでてくる。スクープを取るためにタイトスカートを太股まで上げて走ってネタ元の保安官に追いついてタックルまでしてしまうのだし、記者としての表情はとにかくすさまじいまでに、できる女の顔なのだ。それでいてマッチョ、という印象は受けない。なにしろ映画の冒頭で婚約者に「10分だって君と離れているのは辛いよ」と言われて喜び、「もう一度言って」とうっとりとした顔でおねだりしてしまう彼女を見せられているのだ。その短いやりとりで彼女が女性らしい甘い感情の持ち主だということを存分にたたき込まれる。
■それにしても、ロザリンド・ラッセルすてき。女の顔と仕事の顔の切り替わりがものすごく見事だ。

■ケイリー・グラントの役柄は強引で自信満々で手段を選ばないという鼻持ちならない性格の人物なのだが、それが下品にならないのがすごい。概要だけで見たら、別れた女が彼のところに戻るなんて展開は納得できない人物像なのに、品の良さと愛らしさがにじんでるんだよねえ。
■それ以外の登場人物達もあまりにいい味を出していて、一人ひとりについてコメントしたくなってしまう。

■この映画がたったの92分で構成されてるなんて信じられない。

2005年04月12日

『フランダースの犬』1998

■テレビでやっていたのでついうっかり見る。アメリカ映画なのはなぜだ?アメリカでも有名?
■とにかく、多くの日本育ちにとって「フランダースの犬」といえば「世界名作劇場」、かどうかはともかく「フランダース」と言われただけで涙ぐんでしまう私としてはあのアニメの記憶無しに見ることは不可能。というわけで、この映画は二重写しで見えてしまったので、映画自体がたとえ駄作であることを随所でアピールしようとも涙してしまった。
■というか、あのラストを思い浮かべながら見ているので常に切ない。

■しかし、その二重写しをぶち破ってそりゃないだろう!と突っ込みを入れざるを得ないラストのダメさはすごかった。ルーベンス出てきちゃうし、母ちゃん天国から迎えに来ちゃうし。あれは孤独な少年が犬と2人ぽっちで死んでしまい(天使は迎えに来るけど)翌朝、ほほえみを浮かべながら死んでいった2人が発見されるっていう、切なさがいいのに。わびさび分かってないよなあ。あまりのキレの悪さに出てた涙がするする引っ込みました。
■映画ならあのルーベンスの絵を素晴らしいライティングで存分に映し出して、それをほほえんで見つめるネロ、「僕とうとう見たんだよ」の一言でシーン切り替わり、翌朝冷たくなっているネロとパトラッシュに差し込む陽の光、で潔く終了。くらいにしてほしかったなあ。

2005年04月04日

『ベッカムに恋して』2002

■可もなく不可もなく。これはあれだな、少女マンガだ。夢もあって才能もあるけど、いろんな障害があって、でもかっこよくて頼りになる年上の男の子に助けられて夢を叶えるし、もちろんその男の子とは恋人同士になる(セックス抜き)。
■同じようにマンガだなあと思ったのは、ちょっと古いけど矢口氏の『ウォーターボーイズ』で、こちらはキレがよくてそのマンガっぽさがむしろとても好き。

■イギリスにおけるインド移民コミュニティやその文化、考え方など興味深くはあるけれど、サッカーの描写もなんとなくだし、母娘の葛藤も今ひとつ描ききれず。全体として上っぺらな感じになってしまっている。
■ただ、父息子の葛藤ものが多いと思われるイギリス映画の中で、母娘という視点は新鮮なのかも。
■父息子の方が話が派手になって描きやすいのかもしれないと、この映画を観て思った。女子の方が(そうあるべきと思われてもいるせいで)文化や家族に縛られやすいから、葛藤だって本当はもっともっと強い(と思う)。ただ強く縛られるがゆえに葛藤は内向的になっていくのでお話として描きにくいのかもな。その点、この映画は果敢に挑んだとも言える。

■またしても、日本の配給会社のセンスの悪さが表立ってしまった邦題。「bend it like Beckham」て原題もどうかと思うが。直訳で「曲げろ」だけど「bend it」で何か俗語でもあるのだろうか?知っている方いたら教えて下さい。
■ちなみにいまいち分からないイギリスネタたちはココの人が教えてくれてます。参考になりました。

■イギリス内のアジアコミュニティとその文化が強く影響する親との葛藤物語という点では『ぼくの国??』の姉妹編だけど(こちらはインドとは仲の悪いパキスタンコミュニティ)、子どもの圧倒的な才能の前に親が屈服するという点では『リトルダンサー』に続くもの。
■しかし、物語としてまとめやすいネタがなくても、文化的背景が濃厚じゃなくても、圧倒的な才能が無くても、親との確執の物語は世の中に溢れまくっているのだ。
■ちょうど読んでいた金井美恵子氏の昔の小説『小春日和』から以下引用。恥うんぬんはともかく、「理解させようとすると一生かかる」のは世代文化を問わず、「親」というものがそういうものなのだろうなあ。
 娘が東京で一人暮らしを始めると決めたとき、母親というのは(中略)あれこれの注意の後で、恥ずかしいまねだけはしないでね、あんたの恥はあたしの恥なんだからねと言った意味のことを付け加えて、子供を苛立たせる。
 (中略)〈あんたの恥はあたしの恥的家族構造〉がイヤだから、母親から離れるのに、わかってない(中略)。
 そうした基本的原理を母親に理解させて家を出ようとすると??結婚していない娘が、家を出て一人暮らしをする??多分、一生かかっても家を出られないということになる。

2005年02月11日

『100人の子どもたちが列車を待っている』1988

■待っている列車は実際の列車じゃありません。リュミエール兄弟による世界最初の映画の列車です。
■チリの、比較的貧しいと思われる地域の子どもたちのために開かれた映画教室の様子を撮ったドキュメンタリー。この映画教室の中身がすごい。映画を見せて感想を書かせるとかじゃないんです。映画がどうやって作られているのか、映画がどうやって発見されたのか、おもちゃなどを使って子どもたちに体験させていく。木で出来たカメラで「撮影」させて映画を作ることを体感させる。映画館になど一度も行ったことが無い子がほとんどのこの教室で、まるで映画が発見されていくかのようだ。
■教会で開かれる課外授業のようなこの教室に、目を輝かせてやってくる子どもたちの、学ぶことの刺激に満ちあふれた表情から、この教室がどれだけ楽しいのか嫌というほど伝わってきて、うらやましくてしょうがない。
■授業後半の映画鑑賞で、子どもたちがきゃあきゃあ言いながら観てるのがとても楽しそうで、やっぱりうらやましい。特に、チャップリンの映画の時には、吹き替えでは絶対に「志村うしろうしろ!」と当てたくなるような歓声を上げながら見ているので、一緒になって叫んでしまいそうだ。
■映画館に行ったことのない子どもたちがバスに乗り、町の映画館へ向かう時の高揚した表情、最高級品です。

■子どもたちへのインタビューでは、淡々と事実や彼らの感じていることだけを聞いていて、聞き手の同情やお説教や誘導が無く、作り手の誠実さを確認できる。あざとさが無い。

■使われている子どもたちのコーラスが、少し前に観て興奮しきった(10月24日の日記にある)『新学期操行ゼロ』からだというのは金井美恵子さんの文章を読んでから判ったのだが(ダメだなあ)、その高らかで誇らしげな歌声と汽車の音が重なり、映写機を廻す子どもの映像に被るラストシーンは、なんだか心を奮い立たせられるような、喜びに溢れるような気持ちに満たされる。

■金井さんが何度も引用している、テレビと映画ではどこが違う?という質問に答える子どもの「テレビと映画では大きさが違う」という言葉を実際に聞いて改めて、その言葉の素敵さに気づく。貧しいとはいえ、家にテレビはある子どもたちを、なぜそれほどまでに映画(サイレント含む)は夢中にさせてしまうのか。みんなで観るという空間の大きさも含め、大きいスクリーンがある、そのことがすばらしく興奮をもたらしてくれることをこんなにまっすぐに教えてくれるこのドキュメンタリーに、感謝さえしたいのだ。
金井さんが書いたとおり、「100人の子どもたちと一緒に私たちも列車を待っている」。

2005年01月10日

『ベルヴィル・ランデブー』

■久しぶりに映画館に映画を観に行ったわけですが。
こんなに興奮させられるとは!うげえ面白かった!

■というこの『ベルヴィル・ランデブー』は、主題歌がジプシージャズと呼ばれるらしいジャンルの曲で、それがとにかくかっこいいので気になっていたのだけど、おフランスのアニメ(←偏見あり)でおフランス的なエスプリとユーモアたっぷり(←食わず嫌い)な感じがしていて観に行くにも二の足を踏んでいたのです。が!観に行って良かった。観終わった後の興奮ははかりしれず、「いやあ??(感嘆)」をNGワードにしたら瞬く間に私のなけなしの全財産が飛んでいく位に、ただただ感嘆の嵐。不安もあった分、その中身のツボ突きまくりなノリに完全におとされました。
■感想がまとまらなくてなかなかここにも書けなかったのだけど、いまだにまとまらないので、感想はあきらめてとにかく皆さんにお勧めします。

■絵柄は好き嫌い別れるかもしれないような相当の誇張された絵面ですが、観ているうちにはまります。おばあちゃんがどんどん愛らしくなってきます。断言。
■犬好きはツボを押されまくるに違いありません。あの極端な絵からは想像もできないほどの犬リアリズム。かつてこれほどまでにあざとくなく、しかし愛らしく主役級の犬を描けた映画(ましてやアニメで)があっただろうか?と言いたくなるほどに。作り手は絶対犬への愛情が溢れまくりな人だろうに、そこに余計なものを付け足さず、犬がただ犬だからこんなにも愛らしい感、を表してるんだよねえ。それでいて車の……あんな…うひひひ。
■ようするに、犬の描き方に代表されるように、限界まで誇張された絵面はリアリティを損なうモノではなく、むしろだからこそ、リアリティある仕草がユーモアとして成り立ってしまう感じだ。あるいはどこか突き放した対象への視点が、それゆえに彼らを生き生きと動かす。
■ああ、いや、そんな分析は必要ない。ただ音楽に酔うも良し、カエルにうげええとなるも良し。アメリカ皮肉りまくり感を楽しむもよし。
■セリフもない(に等しい)、それゆえに意表も突かれまくったり、ほんの80分間の中にワンダーランドひろがりまくりだ。

■ブルーノ(犬)がご飯を食う口元。おばあちゃんの喜びや落胆が伝わってくるかすかな表情の動き。三姉妹のゆれる手。ぴーぴー鳴る鼻。
■一度では見きれず、見落としているモノが山ほどあるに違いない。ふう。

■とにかくですね、これは観て欲しいっす。それで、ツボを突かれたシーンをいちいち上げあって楽しみたいっす。うひひひってな感じの笑いで。

2004年12月30日

『ペイルライダー』1985

■ザ・マン、男だねえええ、と心底思わせるヤツ、クリント・イーストウッド。なんなのでしょう、あの人の猛烈にストイックで男らしくて渋くてスマートで心優しいさまは。監督&主演でこの役柄。照れがあったら絶対出来ないから。自負心がなければ絶対出来ないから。そしてその自負心が空回りせず、かっこいいよなあと観る側に思わせてしまう、その男体現能力はどうやって獲得してきたモノなのだ。照れ隠しのギャグを挟まず、観る側にうんざりもさせず(少なくとも私は)、「かっこいいタフな男」を演じられるなんて、こんな時代にあり得ないし、逆にその存在自体が笑えるの対象かもしれない。けれど、実際にイーストウッドを目の前にしてしまえばやはり、ほうっ、とため息をつくしかないのだ。役者としての存在が既に、なにかしら超越した存在。

■この映画は砂金掘り達とその鉱脈を狙う有力者との抗争の物語だが、イーストウッドは「青白い馬」に乗りどこからともなく現れる、めっぽう強く、背中に7個の弾痕を持つ「牧師」なのだ。奇跡を望んでお祈りをし、そして現れた「牧師」に恋をする娘が言うように、まさしくそれは「奇跡」の存在だ。気骨はあるけれど戦う術はない、金もない「砂金掘り」達に、牧師は精神的にも実質的にも強さを与えてしまう。強さを秘めたその存在だけで、人々を強くしてしまうなんて、まさしく信仰を持つ人にとっての「神」じゃないのか。もう一回言うけど、監督&主演でこの役柄。

■イーストウッドは主人公ながらあまりに超越した役柄なので(幽霊説アリ)、人々のヒーローではあるけれどコミュニティの一部とはならない。それがそれでまたかっこいいのだが、主人公が超越している分、砂金掘り達とは別枠となり、彼ら一人ひとりの個性もきちんと表立ってくる。彼らの、決して実質的に強くはないけれどプライドは捨てたくないという、その強さ(強がり)は嫌みが無くてすてきだ。ハルはもちろん、頭の弱い息子2人を抱えるスパイダーのおやじがとにかくいい。所詮山師な自分を充分分かりながら、何にも後ろめたさを持っていない感じがするのだ。そうして好感度満点に描かれる脇役は撃たれる、やはり。あのおやじが撃たれるシーンは何度観ても切なくて、雪の往来で金塊と酒を手に有力者に悪態をわめくおやじに、何度逃げてくれー、と念じたことか。まったく、気持ちいいまでにイーストウッド監督の術中にはまる。
■それにしても、あの小さな町の、しかも雪景色の中で、わめくおやじの声が周囲の圧倒的な野原や山に吸い込まれていく感じがたまらない。町も人もちっぽけな感じがすごくするのだ。あのシーンが一番、土地としての「西部」の殺伐というか、隔離された土地、開拓地的な切なさを感じさせる。それに対し、ラストシーンで娘がもう姿の見えない牧師に対して感謝の言葉を叫ぶシーンはこだまがどこまでも続いていくようで、土地の雄大さを感じさせるのだ。この二つの「響く声」の違いは気のせいか、やっぱり監督の狙いなのか。
■水圧で金鉱を掘削する有力者の土地では声は響かない。響くのはただ破壊的な水の音だけだ。

■保安官が至近距離で牧師に撃たれ、背中の弾丸の抜けた箇所が噴火した後みたいに山形になっているのがやたらリアルで、ぞっとし、逆にそんなところをリアルに描けている映画は少ないのではないかと思い当たる。

■いい人達がたくさん出てくるので心が温まる映画でもある。ハードボイルド&ハートウオーミング、て書くとすごくつまらない映画みたいだ。こざかしい子役とかは一切出てきません、大人の映画だから。展開もシャキシャキしていて非常に見終わった後にストレスの残らない映画です。残るのは感嘆のため息のみ。ほうっ。

2004年11月13日

『バグダッド カフェ』1987

■「コーリング・ユー」は青春の味。10年以上も前、主題歌の「コーリング・ユー」がヘビロテだった一時があった。今回改めて観て、やっぱりこの曲の力強さに感服。それにしてもその頃なぜ、この曲ばかり聴いていたのか思い出せない。なんか辛いことがあったのか、自分。
■そして、今回は「底なし」の私に元気をつけろと友人がDVDを貸してくれました。ありがとう。
■そして、その思いやりを台無しにするかのような感想。ごめんなさい。

■今回改めて観て。以前はただ、ジャスミンの素敵さに安心しきっていた自分がいたのだが、今観るとどこか居心地が悪い。
■それはジャスミンのイメージの捉え方が変わったからだ。彼女は「理想の母」のイメージ。誰をも理解し受け入れ暖かい空気をもたらす存在。ごてごてと飾り付け、きっちりと肉体を包み込んでいた「妻」としての服を脱ぎ、シャツ姿で、その自由になった豊かな体全体であらゆるものを包み込んでいこうとする彼女は「母性」そのものではないだろうか?彼女に求婚することになるルーディーの絵の中ですら、彼女は聖母のように描かれる。
■その「理想の母性」がどうもいやなのは、あまりにも彼女自身の内面が伝わってこないせいだし、さらには、自分がまかり間違ってそのような「母性」を求められかねない「女」であるためだったり、ブレンダのようにいつでもいっぱいいっぱいでイライラしているせいだったりで、そんな女は絶対に実在しません!と言い捨てたい衝動にかられる。のは、やっぱりどこかまずいんだろうか、自分。

2004年11月09日

『HATARI!』1961

■面白い!こんなに素直に、面白い!と叫べる映画は滅多にないんじゃないか。いい意味で何の引っかかりもなく、ただひたすら笑ってはらはらしてほうっとしているうちにこの映画は終わってしまう。ものすごく「娯楽」。
■アフリカの草原を駆け抜けるサイ、猛烈な体当たりをするサイ、恐いです。サイは恐いよ。
■「子象の行進」という曲はこの映画の曲だったんですね、子象がもう、果てしなく愛らしい。水浴びに行くシーンもさながら、ラスト近くで置いてけぼりにされた2頭の子象が町に向かって走るカットがたまらなくかわいくて、何度も挿入されるそのカットの度に流れる「パパラパッパラー」は現在私的ブーム。
■ハワード・ホークス監督作には必ず何らかのメカ的なものが登場するらしい。この作品の中でも、一見単なるお調子者が実は発明家で、猿を捕獲するためにロケットを作ってしまう。彼が、その成功の晩にへべれけに酔っぱらって、何度も何度もその様子を仲間達に語らせては感極まって泣き上戸になる様も、うんざりしながらもそれに付き合う仲間も、人間くささ満点で好きなシーンの1つ。
■笑いのひとつひとつはベタなのに、それがテンポよく次から次へと繰り出されていく心地よさにどんどん引き込まれていく。
■動物捕獲のシーンも迫力ありすぎ。全力でサバンナを駆けるジープのさきっちょには乗りたくないよ。あれ、本当にケガした人がいるんじゃないだろうか。
■登場人物がなんだかみんな素敵に大人だ。さらに、チームみんなそれぞれの個性が際立っていて愛着を持ってしまう。
■動物園に送る動物を捕獲するという設定は今から考えると微妙だけれど、その時代特有のものであり、そこらへんの是非を考え始めると動物園の存在そのものを考えなくてはならなくなるので棚上げ。

2004年10月17日

『ヴァン・ヘルシング』

■『ハムナプトラ』のスティーブン・ソマーズ監督作。『ハム』がきちんと痛快に娯楽作!だったので、ユニバーサルモンスター総動員というばかばかしい設定にも関わらず映画館へ。結論。ソマーズ監督は絶対に毎日、縦だか横だか分からないステーキとプロテインを大量に摂取している。そうでなければあんなにこってりして盛りだくさんでやりすぎの映画を「きちんと」作り上げることなんて出来るわけがない。そう、これがまた面白かったのです。『ハム2』は続編の悲しさか、やりすぎ感が表に立ってしまって半分くらいで満腹もういらない、となってしまったのだけど、設定としてはそれ以上にやりすぎのこれ、最後まで飽きずに観てしまいました。満腹だけど。
■CGはもちろん使いまくりなんだけど、舞踏会のように安く仕上げてほしくないところはきちんと大量のエキストラなどを使って作り上げてくれるし、バカも満載。モンスター総動員だけでは飽きたらず、バチカンの地下が007の秘密基地のようになっている始末。世界中、あらゆる宗教の僧侶たちが集結して武器を開発しているのだ!て、あんた。。。いまさらギャグ映画ですらボツになりそうな設定をしらっとやりきってます。ばかばかしいことはまじめにやるほどばかばかしく面白いてことを、わかってらっしゃる。「フランケンシュタインの怪物」の頭がフタのようにぱかぱかっと開いてしまうのも笑った。慌てて閉める奴がすてき。あれ、フタ1つじゃなくて2つの合わせ扉(?)になってるのがまたニクイ。
■しかしなんといってもニクイのは「フランケンシュタインの怪物」の扱い方。オリジナル『フランケンシュタイン』で号泣した私としては「怪物」を賢者として設定し、決して殺さない扱いに涙。嬉しかったのです。もしかしたら安易だと怒る人もいるかもしれないけれど。ティム・バートンの『フランケンウィニー』ですら泣く私だ。これが心に染みないわけはなかったのです。この映画、オリジナル『フラ』を観ている人と観ていない人では随分捉え方が変わるだろうな。
■どう考えても続編作る気たっぷりの終わり方だったので、素直に『ヴァン2』を楽しみにしたいと思います。しかし、観るには体力が必要。

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