2005年05月23日

『アンダルシアの犬』1928

■目玉がひげ剃りナイフでさっくり切られることで有名らしい映画。何が何やら分かりません。自分が一体何を見ているのかわからん、なんじゃこれ、と呆然と口を開けていたら過ぎていった15分。
■ダリとブニュエルが見た悪夢を連ねていった映画らしいので、「なんじゃこりゃ」でいいのだ。と思う。
■動くダリの世界。時間も空間もメルトダウン。
■ずっと気になっていたこの映画を観る決心をしたのは、この前読んだカルロス・フエンテスの『遠い家族』という小説の中で引用されていたからで、現実の時間が無意味に解体されてしまうこの小説はやっぱり何が何やら分からなかったのだけど、何かにひきつけられる感覚はあって、分からないことと面白いかどうかは別物だなあと。パゾリーニとかもそうだし。「タイガー&ドラゴン」でも小虎が毎回、噺の内容は分からないのに爆笑してるわけだし。
■でもこの映画、いずれもう一度観直すまではただただ、訳ワカラン、で定着。

2005年05月02日

『ウィスキー』

■ウルグアイは映画不毛の地らしい。南米にあることだけは知っている、そんな国の30代兄弟がひょっこり作ってしまった映画は、下馬評どおり「南米のカウリスマキ」。地味さを愛おしく描く感じ。
■全体の淡々とした地味な雰囲気、不器用な生き方の登場人物達、工場の機械、ちょっとした配色のかわいらしさ(ポットの色!)、南米とはいえ寒々しい空気感、くすっとするユーモア感覚(兄弟のおみやげ交換とか)。どう考えても監督達はカウリスマキフリークなのだろう、と思うのだがどうなんだろう?当然それは誉め言葉として言っているのですが。

■主人公の一人である中年女性のマルタの、「おばさん(としか言いようがない)」から「可憐な少女」へのさりげない移行がとても愛おしく、それは当然カウリスマキにおけるオウテネンを思い起こさせるのだけど、この人からなぜこんなにも「かわいらしさ」が溢れ出てくるのか不思議になるくらいだ。子ども頃の逆さ言葉遊びなどからそれが伺われるマルタの内気さが、エルマン(弟)の陽気さにつられてほぐれていき、笑顔を見せるようになる過程は見事。内気さと自信のなさから縮こまっていた彼女がやっとリラックスできる場所を得たという暖かさと、そんなささいなことに幸せを見つけてしまう彼女の人生の幸薄さが同時に襲ってきます。身につまされます。
■一方のハコボ(兄)の頑なさは最後まで続くので、なんて言うかむずがゆい。わざわざ包装紙を買って贈り物をがさごそと不器用そうに包む姿が愛おしさと切なさをかき立てる彼にも、自分の殻から脱出するチャンスはいくらでもあったはずなのに。エアホッケーやUFOキャッチャーに熱中してしまう彼は頑固じじいでもあり、精神的引きこもりでもあり、これまた身につまされる。

■エレベーターに並んで乗る背高ハコボとちびっ子マルタの無表情対決は、その停滞した空気の時間の長さが笑いを誘うが、あのシーンで2人とも目の部分が影になっているのは、彫りの深い顔立ちの人種にはごく当たり前のこと、として気にされないのだろうか、それとも監督の意図があってのかげなんだろうか?うち解けられない2人がエレベーターという狭い空間に入れられるぎこちなさが目の表情を隠すことで余計に際立つような感じがした。
■カウリスマキ繋がりで小津安二郎の系譜に連ねるなら、エレベーターで並ぶ(正確には前後だけど)、車に並んで座るといった「並ぶ」行為で縮まるはずのハコボとマルタの関係は、「並ぶ」たびに縮んでいるようにみえて、並ぶことをやめたとたんに離れてしまうのがまた歯がゆい。

■ラストは観客に委ねすぎるほどに委ねられているが、それはそれで良いとしよう。そして人生はつづく、わけだし。

■この監督達がさらに「カウリスマキ的」になることに期待。カウリスマキはあんなテイストでありながらもっとやりたい放題だ。

2005年04月11日

『アバウト・シュミット』2002

■すべてがちんけなエピソードで構成されたちんけな展開の、ザ・小市民ストーリー。が、このようになかなかステキ映画になり得るからこそ、映画というのは面白い、のでしょうか。

■シュミットが途方に暮れる様はおそらく、今までに反吐が出るほど語られ尽くした定年後の男性像なのだが、この映画ではそこに突飛なアイデアや事件など付け足さず、真摯にというよりは残酷なまでに丁寧に「ありがち」なエピソードを連ねていく。なにしろ、66才にして最新式巨大キャンピングカー(10.5m)を走らせるとはいえ(アメリカではそれも一つのリタイア後の生き方なのだろうし)、亡くなった妻と友人の浮気証拠を靴箱から発見してしまったりもするし、ふと善意に目覚めてフォスターペアレンツになってしまったりもする。おそらくアメリカ人ならば、友人の親戚まで考慮に入れれば誰もがこの映画に出てきたエピソード全てを「知っている」んじゃないだろうか。
■その丁寧さに答えるように、ジャック・ニコルソンがこれまた残酷なまでに見事に丁寧に(座って放尿するニコルソンの顔!)途方に暮れる小市民の男を演じきっている。
■この二つの丁寧さが良い。悲しみだけでなく、哀しさだけでなく、滑稽な、無様な、生きていくということ。丁寧に描いているからこそにじみ出るおかしみ。「にじみ出る」ってのはむずかしいよ。

■しかし、それにしてもこの映画が成立しているのはやはりなんといってもジャック・ニコルソンという俳優の力だ。彼が完全なまでに小市民シュミットを演じているから、だけではない。これほどのありきたりなエピソードを並べ立ててはあるが、この映画を観てそうそうそう、と素直に共感の意を表せたリタイア男性は果たしてどのくらいいたのだろうか。内容が「あるある」で、それも情けなさ全開で見事に演じられてはいるのだが、なにしろ演じているのがあのジャック・ニコルソンだ。観ていて、ふと、そうなんだよなあ、と同調してしまっても、よくよく観ればそれはニコルソンなのだ。あの顔、そして彼の演じてきた特異なキャラクター達の記憶を完全に消して「シュミット」を観ることは出来るだろうか。とりあえず私は否、だ。
■完全小市民を完全に再現しながらも安易に同調を許さない映画。だってニコルソンなんだもん。だからこそ映画として成り立っているとも言える(かもしれない)。この映画にこのキャスティング、ニコルソンという特別な肉体がもたらすケミカル成立。

■ラストのシュミットの涙を「救い」と見ている感想をネット上で多く見たのだけど、監督の意図がどうであれ、あれを「救い」と受け止めるのは違和感がある。というか、若かったり、内向的でない人にはないのだろうか、自分が何かに覆われているような、感情や思考が停滞している状態の時に不意に「外」から突き刺さってくる何か。衝撃ではなく、ほんの針の穴のような空気穴。ささいなものやごく俗っぽいものでもなんでも、その瞬間に膜がふとはがれるような。
それを「救い」と呼ぶことも可能だろうけど、それほど大げさなものではない。それでシュミットの全てが変わるようなことはない。ただ、その瞬間に自分が息をしていることに気づくようなそんなようなことなんだと思うのだけど。

■冒頭の、町の鳥瞰からシュミットの働くビルへのクローズアップの流れがなかなか好き。

■妻の葬式の司祭がモンティパイソンのマイケル・ペリンに見え、「アホイ」と脳天気に登場するキャンピングカー仲間の男がエリック・アイドルに見えてしまった私は何か問題ありすぎだろうか?

2005年03月29日

『家路』2001

■世界最高齢現役映画監督、マヌエル・ド・オリヴェイラ作品。
■画面に映し出されるもの、ただ目に見えるものそのものに心を鷲掴みにされる。何かがあふれ出してくるような、私の語彙では「豊かさ(もちろん経済的な意味とは一切関係なく)」と言うのが一番適当だと思われる、そこに映っているもの。豊かな画面。そんなふうに撮られたパリを見ることの出来る映画でもある。主人公である舞台俳優の老齢男性の日常をドキュメントするように撮られていく、その町があまりにも魅力的だ。
監督がパリに来て見つけだしたその町の魅力、あるいは魅力ある町としてのパリを見つけること。
■反復される、カフェでの一こま。そこに加わるかすかな差異。ふとショーウィンドウを覗きお気に入りの靴を買う。孫へのおみやげを手に歩く。ストリートオルガンの音色に聞き惚れる。それらが、やや離れた場所から観察するように、見守るように撮られる。
■主人公は歩く。車に乗る必要のある距離ならば、散歩を兼ねて遠い乗り場に向かう。それはパリという土地に一番ふさわしい移動速度なのかもしれないし、ただ歩くことを楽しめる町というのは空間として豊かな場所である証明でもある。
■あるいは適度な疲労を伴うことが「家」への正しいアプローチなのかもしれない。監督が言うように、安らかな「巣」としての「家」。
■強盗に襲われたりもするのだが、お気に入りの靴を手放さなければならなくなった時の、残念そうな顔と仕草がたまらなくほほえましくユーモラスに見えてしまいもする。
■全体を通してただよう軽やかさが心地よい。日常を愛すべきものとして過ごす方法を知っている、そんな雰囲気がある。

■ストップモーションではないけれど、ラストの孫息子のアップの長いショットで『大人は判ってくれない』のラストを思い出した。視線のひたすらなまっすぐさと、そのあまりのあざとくなさ、が共通していないだろうか?あるいはその視線を見つめることで掻きたれられる不安感。その視線の意味するものを解釈したいと思いながらもできない不安感。

■監督役マルコヴィッチの「んアクションヌ」のねばねばしそうなかけ声が笑えるのだが、とてつもなく素敵だ。ぼそぼそぼそぼそっと喋るその、異常なまでの声質の柔らかさも素敵だ。
■主人公のすてきさはどう形容したらいいのかよく分からない。とことんあざとくない素敵老人。老人監督だから可能という要素はあるんだろうか。

■DVDのおまけで監督のインタビューが付いていた。上品な雰囲気にアゴから首にかけての老人特有たぷたぷ肉があまりに見事なので見惚れていたが(かつてこの人のほぼ真後ろで映画を観たことがある、というのは誰にも通じないささやかな自慢だが、斜め後ろからやはりあのたぷたぷに見惚れていた記憶がある。ちなみにそのときオリヴェイラ監督の隣には同じくポルトガルのパンク中年監督ペドロ・コスタ、で、実際にはコスタ7:オリヴェイラ3くらいの割合でコスタに見惚れていた。)、ふとメガネいっぱいに拡がるキラキラと輝く黒目がちの目、という容貌をつい最近観たことに気が付く。それは『ベルヴィル・ランデヴー』のおばあちゃん、なのだった。そっくり。
■金井美恵子氏が「映画に出てくる魅力的な老人はなぜか目がキラキラと光っている」というようなことを書いていた。ベルヴィルおばあちゃんはまさしく、そのようなものとして描かれ、監督ではあるけれど魅力的な老人であるオリヴェイラの目もやっぱりキラキラと黒目がちに輝いているのだ。

■その人がそこに生きているということ。「家」への路をたどること、たどれること。

■この映画の素敵要素を書き連ねたくて散漫な文章になってしまったけれど、あの「芳醇」ともいえる空気をどうすれば形容できるのか。
■軽やかで、包まれ、深く突き刺さる。

2005年02月08日

『おしどり駕篭』1958

■とてつもない娯楽映画監督らしいマキノ雅弘作品を初めて見る。
■結果、娯楽でした。とてつもなく。歌うし踊るし、コメディだし時代劇だし。一度観ただけで矢場の客引きソングを口ずさめるようになること請け合いです。
■左官屋になった若様のてやんでい節と盟主の風格たっぷりの殿っぷりの演じ分けもすばらしい。衣装を殿仕様に着替えてそれらしく振る舞っていたかと思うと「おれだってつらいんでい」とヘタれるギャップがすてき。若い美空ひばりは美人とは言えないのだが、好きな男の背中に矢場の矢を当てて「あたりぃ??」とぷいと背中を向ける仕草がなんとも可愛らしいので、これを繰り返されるとたまらない。
■若に仕えるふたりのおやじも四角四面ではない侍で、若の恋路の手助けもしたり、小憎らしくてよいのだ。

■しかし、好きな男の後を追って店(矢場)と店の女の子ごと旅に出てしまう設定もすごいし、出てくる女の人がみんな明るかったり、かしこかったりで、とにかく全体がぱーっと明るい映画でした。

2005年02月07日

『イブラヒムおじさんとコーランの花たち』

■トルコだから、イスラムだから、という理由だけで観に行ったのだが、非常に印象の薄い映画だった。
■ケチの付けどころは多々。まず話の展開が荒すぎ。さらにイブラヒムの宗教的よりどころや考え方を「すべてはコーランに書いてある」というセリフの繰り返しのみで表そうとする投げやり加減。2人が接近していく過程の描き方もなんだか雰囲気で流しちゃって、すべてが何となく雰囲気で済ませてしまっている。こういう涙ほろりものはそうやって何となく作ってしまっても何となく観られるものになってしまうという確信犯か。

■パリの裏町+親に捨てられる子ども→トリュフォー。本に挟まれた花→『友だちのうちはどこ』。ジグザグ道→同じくキアロスタミ。あまりにも表面的で不出来なパクリに引用という言葉すら使えない。本人にそのつもりが無くてもこちらはそう思う。
■そのくせ、イブラヒムを演じるオマー・シャリフに引っかけたネタなども出してくるので余計にむっとする。
■あの映画の撮影シーンは何からの引用?
■『リトル・ダンサー』しかり、あの手のラストはがっくりするだけなのでやめてほしい。

■面白かったのは、短いながらもトルコの町やスーフィーの儀式や山の荒涼とした感じ。しかし、トルコの町並や宗教ならNHKスペシャルあたりの方が面白いだろう。

■観ているときは特にむかつきもせず観ていたのだが、感想を書き始めたら嫌なところばかり溢れ出てきた。
とにかく、何となく雰囲気で撮ってみましたという感じで、結局描くべき事を何も描けていないという恐るべき映画。これは脚本よりも監督がだめなのでは。唯一、砂漠に赤い車の俯瞰ショットは良かった。

2005年01月23日

『エル・ドラド』1966

■『リオ・ブラボー』に続く、ハワード・ホークス西部劇3部作の第2作。まったくもって素晴らしい娯楽作。『リオ・ブラボー』に比べるとやや地味な感じもしたけれど、面白いことには変わりなし。も、総評は以上。

■気骨のあるじじい、アル中、保安官、片足がきかない、などなど『リオ・ブラボー』にあった設定が役柄をシャッフルして使われていてニヤニヤ。面白い。話の筋も出てくる人間の設定も前とほとんど一緒で手抜きじゃないの?などと言う奴は娯楽ってものを分かっていないかわいそうな子です。そんなふうに言い切りたくなる娯楽的破壊力があるんだよな。むしろバージョン違いを観れて面白くてしょうがない。
■酔っぱらいロバート・ミッチャムがしょぼくれた情けなさでバーに酒を買いに行く時の顔が、今にも「ほたー!じゅーん!」と言い出しそうで笑ってしまう。ごろうさんがこんなところに。でもその後のしゃっきりした顔とのギャップがすごくてステキ。
■酔いをさまさせる薬、あれは絶対死にます。腹をこわすだけで済むなんて、やっぱり西部の男は強いのかねえ。や、死ぬって、あれ。

2005年01月18日

『アタラント号』1934

■「荒々しい子どもっぽい官能性」と「いかにも親密な猥雑さに充ちた騒々しい好奇心の楽しさと笑いにあふれてい」る「性交の映画」。金井美恵子氏が書いたこれらの言葉がこの映画を言い表せる唯一のものではないか。そう思ってしまうくらい、この映画は不思議な空気に充ちていて、感想を書けなくて困る。
■何かすっきりいかないような、齟齬感というか、かみあっていないというか、進むべき方向に向かえていないような感覚。子どもに導かれているような不安と高揚。自分たちの独自のルールをつくり、ごっこ遊びをする、濃密な時を過ごす子どもたちのような雰囲気の映画。ただし子どもは一人も出てこない。きっと、ジャン・ヴィゴ監督がその子どもなんだ。

■冒頭の結婚式の行列は葬列のようで、花嫁までが感情を押し殺した顔をしている。花婿のみがはしゃぎ手を振り出航するアタラント号を見送る結婚式の参列者達はただ佇み、彼岸に向かう者をそっと見送っているかのようだ。
■初夜を越え、マネキンのような固さで立ちつくしていた花嫁は次の日の朝に初めて笑顔を見せる。まるで「あちら側」の世界の人間として生まれ変わったかのように。

■ベテラン船員であるジュールおやじの部屋にはこれまでの航海でため込んだがらくたが無数に積み重なり、それを次々と引き出しては自慢するおやじのさまは、『新学期 操行ゼロ』の冒頭で、生徒の2人が無限とも思えるほどに次々とポケットからおもちゃを引き出してはしゃぐさまと重なる。

■別々の場所で夜を過ごす夫婦がそれぞれのベットの上で悶々と寝返りをうつシーンを短く交互に映し出すシーンは、ああまさかそんなふうに見えるとは、と思う意外性があるからなのだろうか、このうえなくドキドキさせられる「性交」のシーンになっている。

■1つ1つのシーンすべてがそれ1つで感想文一文書けてしまうような濃密さに充ちていて、それはやはり「子供じみた猥雑さ」から生まれているように思える。どきどきとか、わくわくとか、心躍るとかではなく、胸がざわめくような空気が画面全体ににじんでいる。
■子供じみている、ということは無邪気さや無鉄砲さだけを指すのではない。豊かな想像力とともに畳に局部をこすりつけ始めたみうらじゅんも子どもだったし、架空のお姉さんの声色で「かわいいわねぇ??」とテープに吹き込んでいたヒロシも子どもだった。性欲も含めたあらゆることすべてが混然としている感覚。思いつくままに行動してしまう感覚。
■映画の内容とは関係なく、この映画には(いやジャン・ヴィゴの映画にはというべきか)「生」が満ちあふれている。

2005年01月11日

『荒武者キートン』1923

■(当然のことながら)ちっとも荒武者じゃないキートンの、比較的アクションが少なめの一品。やや地味な印象だけど、それは私がキートンのアクションを偏愛しているからだ。
■この作品でも絶壁につり下げられたり、滝の上につり下げられるだけじゃなく、空中ブランコ状態で滝から落ちかけるヒロインを救ったりもして大技を見せてくれるのだけど、『探偵学入門』や『カメラマン』のように、後から後から押し寄せてくる細かいアクションがもたらす眩暈を起こしそうなほどの興奮状態がたまらなく好きな身としては少し物足りないと感じてしまう。
■とはいえ、この映画全体が面白くないのではない。これは、キートン単体よりも全体を楽しむ映画なのだ。
■たとえば、なんといっても物語の前半の主役を張り、延々と描写の続く「急行列車」だ。蒸気機関車に馬車の客車が連結して付いているそれは、なんとも見た目が間抜けだ。そして小さい。遅い。何しろキートンの飼い犬がずっと汽車の下を走って着いていけるくらい。そしてこの汽車をとりまくギャグが気の抜けたおもしろさで、今もぐもぐと反すうしながらにやにや。枕木の間の草を食べるヤギを動かせなければ、どうする?でこぼこの石道にレールを敷くには?脱線したら?客車が機関車を追い越してしまったら?コントなどで昔の様子を誇張して再現して笑いを取るパターンがあるが、これはまさしくその通りなのだろう。微妙に真実もまじっている(のか!?)その誇張を公開当時の人たちも「なわけねーだろ!」と突っ込みをいれながら爆笑していたに違いない。
■と、なぜキートンの映画を観ると当時の観客達の反応を想像したくなってしまうのだろう。

■しかし、馬のお尻があんなにうまく女性の歩く後ろ姿を表現できるとは、まいった。
■キートンホリックゆえに「地味」と書いてしまったけど、作品全体としては他の作品同様たくさんのアイデアが盛り込まれていて面白かった。

■あと、久しぶりにサイレント映画を音楽つきで見たけど、やっぱりビデオで入れられているような適当な音楽は消して無音で観た方がいい。公開当時に劇場でどんな音楽がつけられていたのかが分かったらおもしろいのになあ。

2004年11月25日

『赤ちゃん教育』1938

■ハワード・ホークス、コメディー百本ノック。いや、やっぱりギャグの一個々は今見るとベタだなあと思いますが、しかし、あれだけの分量をあのテンポであれだけスマートに繰り出しまくれるもんなのでしょうか。ヒョウを郊外の家に運ぶだけの話がなぜここまで事件だらけギャグだらけになってしまうのか。そしてなぜこれだけのギャグを盛り込みながら、すばらしくテンポのいい作品になるのだ。
■ここから個々のギャグを切り出してベタと思われるほどに使いまわされてきたのだろうけど、この怒濤の繰り出し方でこそ本当に面白いと言えるんだろうな。
■赤ちゃんがまたかわいくてかわいくて。肉のかたまりを生で食らうベイビーですけど。amazonの「DVDデータベース」から引用した内容紹介があまりにも間違っているので失笑。(むろん、その上の的田也寸志氏の紹介が正)
■しかし、キャサリン・ヘプバーンの天真爛漫なわがまま放題に爆笑出来るのは大人。わたしはイライラしっぱなしだったよ。とは言っても警察署で見せるアバズレ女の演技がはまり過ぎなのと、捕まえたヒョウをひきずってくるシーンは、お嬢さんぶってるときよりもいい感じで素敵。
■ケイリー・グラント、二枚目俳優なのに丸メガネ常着のうえにフリルふりふりのガウンを着たり場違いな乗馬服を着たり犬の後を追いかけて泥だらけになったり、格好良いシーンが一個も無し。ここでは完全にコメディ俳優です。なのに二枚目。キャサリン・ヘプバーンがメガネをはずしたケイリー・グラントに見とれてぼーっとなるシーンは説得力ありまくり。いい男はあれだけ格好悪くてもいい男たりえるのか。
■ヒョウの「ベイビー」と犬が連れ立って走るシーンが何回か出てくるが、そのときもちろん私の頭の中では『ハタリ!』の子象併走シーン(『ハタリ!』の感想をご参照下さい)が同時進行。監督は「二匹」が好きなんだろうか。青山真治監督の「並んでる」病※に近しい中毒性をもたらしそうだ。

※小津安二郎監督作では、登場人物たちはたびたび並んで座り、しかもそれが非常に印象的なので、小津中毒である青山真治監督は一時期、並んでいる人を見るだけで小津作品のあらゆる記憶がよみがえってしまい、「ああ並んでる並んでる、並んじゃってるよ」と身もだえていたらしい。小津病のうちの1つ。

2004年11月18日

『アダプテーション』2002

■観てなかったのかよ!といろんなところからつっこみが来そうですが、これには理由があり、この監督・脚本の組合せの前作『マルコヴィッチの穴』が私としては非常に微妙だったからだ。スパイク・ジョーンズの初長編作である『マルコヴィッチ』は、PV出身者は映画向きではないという懸念を見事に証明するかのように、設定と映像づくりに振り回され、個々に面白いシーンはあるものの映画全体のトーンとしては、キレがない、という印象だった。
■しかし、やはりスパイク・ジョーンズはすごい。今作では導入部で、地球の起源からカウフマンが生まれるまでの流れにPVテイストを満載するものの、全体の作りからすると、それがいいアクセントとして効いているといえるほどに全体の作りがきちんと映画だ。確実にPV的手法と映画作りとをうまいこと使い分けている、と思えるのだ。
■そんなわけで、カウフマンの脚本ががっつり面白いコレは、とにかく非常に面白かった。最初の自虐的モノローグからして、あるある系の爆笑を誘う。カウフマンが「現実」として描きたかった世界はことごとく裏切られ、マッキーなる脚本講師が「現実が淡々としているなんて気が狂っている!」と言うように、非現実かのような事件に巻き込まれ、それをそのまま脚本として起こすことになるのだけれど、その逆転ぷりも素敵。
■クリス・クーパー演じるラロシュは本当に「何故か魅力的な人間」で、その複雑さとキレっぷりがすごいし、ニコラス・ケイジはまたすごい。その「デブハゲ」っぷりをそこまで完璧にやるなんて!双子としての演技なんてどうでもよいほどにニコラス・ケイジそのものがすごいよ。さらに、鳥顔メリル・ストリープは、だって正しい人間なんですもの的な雰囲気がかなり苦手な女優なのだけれど、そう感じている人にまさにジャストな意地悪な配役がナイス。「殺すしかないわ」の顔にメリル・ストリープの本性見たり、みたいな感じで非常に怖くてよろしい。
■脚本カウフマン、本当に面白い。実在の人物までからめる仕掛けも面白いけど、「カウフマン」の「誠実ゆえにダメ男」っぷりをここまで描けるか。
■いまさら、悲しみや自己嫌悪を乗り越えて「成長する主人公」をこんなにも嫌みなく描けるのかと感服させられました。

2004年10月25日

『エヴァとステファンとすてきな家族』2000

■なんだかすごくヘタクソな映画を観た。画面のつくりかた、ズームの多様は狙いなんだろうけど、その狙い大はずれ。うざったい。もっと使うところを絞って欲しい。さらに編集がだめなのか、全体の展開が妙にもっさりしてる。緩急つけてください。
■と、言いつつも嫌いではないのです。頭でっかちのコミューンが崩壊して、心のつながる人たちのコミューンになる流れはとても素直だし、細かなエピソードは可愛らしいし、登場人物のほとんどが「こうありたい自分」や「こうしたい自分」と現実の自分とのギャップにジレンマを持っている(ロルフとヨーランが代表格)んだけどそのジレンマ加減すら優しいし、何よりラストの雪の中のサッカーのシーンが好きだ。とにかく好きだ。ABBAの「SOS」の使い方もありでしょう。だから、へたくそな映画だけど愛おしい映画なのです。
■70年代のストックホルムでさらにコミューンという設定の期待を裏切らず、でてくるインテリアや衣装がコジャレゴコロをくすぐるのは素直に認める。しかし、コミューンのカップルのベッドカバーがマリメッコぽいんだけど、いいのか?当時の現地では高価商品ではないのでしょうか、マリメッコ。今の日本で買おうと思うと高いよね、マリメッコの生地。ちえっ。
■それにしても日本の配給担当は果たしてこの映画を観て邦題とあの予告編(DVDに入ってます)を作ったんだろうか。なぜ『Tillsammans』(≒together)が『エヴァとステファンとすてきな家族』になる?この共同体を「大きな家族」とかに集約しないでほしい。予告編にいたってはあざといし、まるで違う映画の宣伝みたいになってるし、ちょっとこれはいくらなんでもよろしくない。北欧ブームに乗っかって適当なことしてるんじゃないかと疑いたくなる。

2004年10月16日

『大いなる幻影』1931

■ジャン・ルノアールが第一次世界大戦を描いた「大傑作」といわれている作品。しかし『フレンチカンカン』や『草の上の昼食』に溢れるルノアール独特の芳醇な幸福感が好きな私にはどう判断していいのか微妙な感じ。
■とはいえさすがルノアール。「紳士の戦争」である第一次大戦だからなのか、文化や人が交流しまくっているフランスとドイツの間柄だからなのか、ルノアールだからなのか、捕虜たちの生活はのんき大将きわまりなし。捕虜のフランス人の方が家族からの小包でドイツ兵よりいい物を食べる始末。脱走も、ひどい生活に耐えかねてではなく、自分たちの自尊心のため。とにかく戦争映画とは思えない、びっくりするほどのんき大将てんこもり、だ。芝居準備のあたりは特にばかだらけでルノアール節にニヤリ。
■戦争がどうというより、貴族階級の終わりや新ブルジョアたちの台頭など、当時のその場所の、時代の流れをこういう角度で見られるのは面白い。E・W・サイードの『戦争とプロパガンダ』で、歴史には「宗教や帝国のための征服戦争」と「相互の交流や異種交配や共有」という二つの側面があるが、軍事行動の中で後者は切り捨てられがちだと書かれているけど、ここでルノアールは後者を描こうとしているんじゃないだろうか。「国」が違っても「共有」できる貴族という記憶。あるいは「国」が同じでも「共有」できない階級や出自(マレシャルがローゼンタールに対して言う、「ユダヤ人が!」)。あらゆるものが複雑に絡み合っている。「もう戦争なんて」というマレシャルに対しローゼンタールが「それは幻影だよ」というのは、戦争が無くなることだけでなく、「国」というもの自体が「幻影」だと言っているとも思えます。「国境は所詮人間が引いた物」ですから。では、スイスとの国境を越えた2人にドイツ兵が発砲しなかったのは「人間」だから?それはルノアールの皮肉なのか、単に「紳士」の時代だからなのか。いかん、頭が混乱してきました。
■ドイツの貴族(エリッヒ・フォン・シュトロハイム)がロボみたいで、そのロボが鉢植えの花を愛でるシーンはほろり。あと、曲がらないクビで酒一気飲みとか、そこ、必要ないのに面白いからやってるでしょ!と思わずつっこみ。
■私の中で顔がでかいとにかくでかい、というイメージだったジャン・ギャバンがあまり顔がでかくなくて驚く。若くて小汚いジャンはかっこいい。

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