2007年01月22日

『オールド・ボーイ』DVD

つまらなかったとは言わないけど。
野暮ったい。
説明が多すぎるし、15年の経過もしつこい。
かなづち振りかざす方向に点線とか、やろうとしていることの方向が絞れてない。それに、主人公が初めて自分が監禁されていた場所に戻ったときの乱闘シーン。ロングの横移動で撮ってるわりには動きが小さくてひどく緩慢に見えてしまった。リズムがないのだな。マキノの『血闘高田馬場』並みにやれとは言わないけど、なんであそこはわざわざロングなのかな。て、それはあれか、小さい画面で観たせいか?

主人公がヒロインの部屋に初めて入った時に、トイレで殴られたり、テーブルに頭ぶつけたりといったアドリブともアクシデントとも見える動きは、身体が生き生きとしているように見えたのに。

それと、主人公と敵役が同い年という設定なのにまるっきりそう見えないというのはなんでだ。役者の年齢自体がかなり離れている上に、近い年齢に見せようともしていないというのはどういう意図なのだろう?原作がそういう設定なのだろうか?映画の中に彼が若く見える事についての説明は無いよね?
回・シーンに入っても、それが本人なのか、本人の父親あるいは歳の離れた兄なのか、迷ってしまったのは私だけか。この話の展開だと、2人の年齢が近いというのは観ている側にとって重要なのではないかと思うので、その辺がどうにも気になってしまった。

筋書きはまあ面白いけど原作ものだしな。話しが面白いだけなら映画にする意味無いしな。筋書きが求める緊迫感を感じられなかった。

ヒロインとのベッドシーンは変にいやらしかったので良いと思いますが。
あ、ヒロインの顔は好きだな。かわいい。

追記:
コメントの方にも書いたのだけど、主人公と敵役の見た目年齢について気にしている人ってあまりいないのかな。もしも、この筋でそこを適当に流しているのだとしたら、この映画自体が適当なものと捉えられても仕方ないでしょ、というくらいに気になっているのだけど。
『東京物語』で笠さんの首筋が隠されたことを思えばなおさら…
ヒロインとのベッドシーンがじっとりといやらしければいやらしいほど最後のテープが成立するように(そして成立しているように)、2人の見た目年齢も成立させて欲しかったな。

2006年12月24日

『硫黄島からの手紙』

この映画を自分の言葉で語ることは難しすぎて私には無理だ。何かに対するリアクションとして、例えば人の感想に対して頷いたり反発したり、それ以上の一体何ができるというんだ。だから、誰かと語り合うことは出来ても感想として書くことは無理。幾度書こうとしても、書く一言の度に自分が感じたことから言葉が遠ざかっていく。どうしたってこの映画について感じたことを誤解されたくないと、ひどく臆病になる。


単に2部作だからではなく、この映画を『父親たちの星条旗』と切り離して考えることは不可能。(ああその不可能性をきちんと書きたいのに…)
それでも私自身は『父親たち〜』よりも『硫黄島〜』の方により衝撃を受けた。それは描かれているのが「日本」の「私達の」物語だからではないし、映画として今作の方がすごいかどうかということでもない。

ただ、この映画が日本人出演者により日本語で撮られていること。そんな阿呆のように単純な理由。英語を得意としないからこその感想だろうけど、今までイーストウッドをすごいすごいと言いながらも、どこか異国の文化や言葉というフィルターがあることで幾分自分に与えられる衝撃が和らいでいたのではないかということに今作を観て初めて気がついた。
見知った顔、顔立ち、字幕を必要としない言葉、微妙なニュアンスまで聞き取ることのできる音調、耳に入るものがダイレクトに届くゆえに余計、映画から受け取るものの異質さに気づかずにはいられない。
違うのだ、そこに映っているのが日本人であろうと、日本語であろうと、それは何にも似てはいない。
それは日本映画にはあり得ないなどというちっぽけな枠を超え、イーストウッドのものでしかない、イーストウッド以外の誰にも作れない空間。
いったいあれだけの冷徹な視線を持ちながら、人間を尊重し、過酷な映像を撮りあげる精神力と体力を持っている人間て、一体何なのだ。イーストウッドという存在は一体何なんだ。
そう、バカみたいでしょうが、日本人キャストと日本の話しによって作られたことで、イーストウッドという存在のものすごさを初めて、やっと、ダイレクトに感じたようです。まったく、いつもどれだけ「映画」を観ることが出来ていないかということか。
でも、だからこそ、映画に打ちのめされながらも、イーストウッドの映画を母国語で観ることが出来ることの幸せにも圧倒される。そう、日本語で「まぎれもなくイーストウッド」としかいえない映画が作られたことの幸せを、ぎゅぎゅっと噛みしめてもいいはずだ。

やっぱりその中身について書くことは出来ないな。いつかは書くかも知れないけれど、書こうとするとあまりに多くのことが溢れてしまう。
あ、でも1つだけ言えることは、画面に映っているものとそれを観ている瞬間の自分自身との一騎打ちだということだ。何かを思い出したり、「戦争」というものに思いを馳せたり、そんなことは一切不可能。ただそこに映るものに打ちのめされ続ける、それだけが可能。そして打ちのめされた果てのラストのショット。

すげえ。映画を観終わって口をついたのはその言葉ばかりだ。

2006年10月31日

『噂の女』

冒頭。『近松物語』の大経師屋の軒先と似たような角度、建物のやや上方、左手前からのカメラに映し出される、やはり大経師屋のように立派な店とたたきの狭い路地、そこを通り過ぎていく着物に風呂敷包みを背負った女。今作が現代劇だと知っていながらも、『近松物語』の世界がそこにあると感じたかどうかという瞬間に、狭い路地の曲がり角に対して不自然なくらい優雅にするりとなめらかに、と形容詞を並べ立てたくなるような夢のような緩やかなスピードで白い大型車が路地に現れる。
それは時代を超えて時空を超えて現れたような唐突感をもたらす。
そりゃ言い過ぎだ、と言われるかとは思うけれど、私は『サンライズ』の電車を思い出してしまった。私の場合にはそれほどまでにこのシーンが決定的だった。ただし、この感覚は『近松物語』の次にこの映画を観たというのが強い要因なのだろうとも思うので、それならば私はこの偶然にとても感謝している。
ともあれ、冒頭からそんな体験をさせられてしまい、私の感覚は完全に攪乱され、映画に身を浸すというよりも映画に身を投げ出すようにしてこの映画を観た。

そんなふうにして観たせいか、田中絹代の足捌きがとても不思議に見えた。歩くすぐそばにマイクを置いていたとしても足音はしないのではないか、だって彼女の足は床から2p浮いているのだから、と、そんなふうに見えたのだ。まるで反重力で床の上を滑り、ちょっとした反動で跳ねる。そんな彼女が老いらくの恋に苦しむ時には、まるで体の節々にかけられた糸で無理やり地面に引っぱられ、それに抗う様に見え、あくまでも体自体の重さが地面に乗っているようには見えない。むろん、私はその浮揚に見惚れた。

置屋とお茶屋を兼ねた店には当然の事ながら太夫達が多くいるが、彼女たちの「女」と「娘」の両面が共にすさまじく、また愛らしい。

どうして溝口はこんなにも「女」を丁寧に描こうとするのかな。どうして「男」がひどすぎるのかな。主人公である娘の心の移り変わり、特にラストに向けての変化はあまりに女らしいと言えば女らしく、ぞっとするし納得する。

むかつくしすっきりするし魅力的だし怖い映画だった。
でもずっと魅惑されてぼんやりと観ていた。
溝口は観続けるとどんどんはまっていくのかも。
フィルムセンターの特集上映にも行けるように頑張ろう。

2006年09月04日

『蟻の兵隊』をススメてみる

『蟻の兵隊』を薦めてくれた友人が、私の感想文を見て「なにができるか?なるべく多くの人にこの映画を観て!って言うことも第1歩かなと思う」とメールをくれた。そうだなあ、と思う。だから改めて、ここを読んでくれている皆様にお薦めしてみる試み。

まずは、みんなに観て欲しいって言ってみる。
私の下手な文章よりHP見て、映画観て頂くのが一番。

そして、私がこの映画を観て感じたことを改めて。

この映画が私にとって大切だ、と思ったのは、今まで知らなかった「戦争」への向き合い方を教えてもらえたから。
反省でもなく、拒絶でもなく、糾弾でもなく、悲惨さの回想でもなく、開き直りでもなく、賞賛でもなく、追憶でもない方法で奥村さんは戦争に向き合う。そうして向き合うことの困難さをこの映画は教えてくれる。どう向き合っているかということを言葉にするのはやっぱり難しい。ただ「向き合う」のだ奥村さんは。

奥村さんの「向き合う」という「闘い」は困難を極めている。外部にも仲間にも自分自身の中にも、向き合うことを拒否したがる敵がいるからだ。

さあ、こう書いてしまうと「知らなかった」と書くことがバカのように、普通のことに見えてしまうだろうか?しかし、こうして闘う人の姿をまじまじと見たのは私は初めてだったのだ。

一度でも「戦争」に手を染めてしまったものは一生、傷を負い続けなければならない。それから逃れるためには忘れるか、その傷を「誇り」に転化するしかない。けれど、奥村さんはその傷を曝す。

もはや奥村さんは、戦争の犠牲者という枠組みを越えている。
けれどまぎれもなく、戦争の犠牲者なのだ。
この両義性のすごさを、どうやったら言葉に出来るかなあ。

そうすることが可能なのだということ、
そういう方法があるのだということ、
それを教えてくれること。
奥村さんの姿勢は、どんな「戦争に対する姿勢」よりも、最も困難な道に見えます。それでもそこにとどまり続ける人がいるということ。その人の姿を見て欲しい。


ああ、結局まとまってないなあ。
でも、こうしてあがく私の文章を読んで「わけわかんねえよ!」とキレて観に行ってもらえれば、それはそれで作戦勝ちということにさせていただこう。

「蟻の兵隊」公式HP
公開劇場一覧
蟻の兵隊を観る会」というものがあるようです

2006年09月03日

『蟻の兵隊』

この国において被害者であり、
彼の国において加害者である。
その両義から眼を逸らさないということの過酷さと力強さ。

終戦後も上官命令で中国に残り内戦を戦う事になった日本兵。捕虜生活を終え、日本に帰ってきた彼等は「勝手に志願し居残った逃亡兵」と見なされた。そして彼等は真実を求め闘い続ける。(詳しくはHPを)

※以下、たいへんまとまっておりません。


真実の追究は加害者としての自分と直面し続けることでもある。外部から、鬼だった自分を語られることでもある。証拠探しのための中国の旅は、自分の殺人現場に立つことでもあるのだ。加害者という記憶に包囲されること、そして自分の中に鬼が居残り続けていることに気づくこと。

中国での1シーン、理性的な奥村氏の目に異様な光を見る瞬間、私は打ちのめされた気分になる。そこに「日本兵」としての傲慢さと罪を転化しようとする弱さを見るからだ。しかし、奥村氏はその自分から逃げることはない。

被害者である自分も加害者である自分も、1つの問題、「戦争」から発生していることなのだという思いがあるのだろうか。自分たちのための証拠探しを超え、語られない戦争、人々が口を閉ざしている戦争、奥村氏はそこを真正面から切り開こうとする。戦争を知るものとして、また、戦争など知らない初年兵として。

「時間との勝負」だと奥村氏は言う。多くの人は口を閉ざしたまま死んでしまった。まだ生きている人々に語ってもらわなければならない。戦争を美化させないために。戦争というものがどんなものであったのか、より多くの真実を得るために。

映画中に8月15日の靖国神社が映される。
初めて知った。あんなことになってるんだ。
とてもじゃないけど、文字にしたくない。
心臓が一気に縮まって気が遠くなる。
その中に奥村さんの怒りの眼を見つける。悲しみと怒りに光る眼だ。
その怒りは若者よりも、同じ戦争体験者に向けられる。あの戦争を美化するのかと、国に取られ、人を殺して死んでいった人間が神であるものかと。

事実のすり替えを許さない。
それは、奥村氏自身の心にも傷を刻み続けるものでもあるのに。

他者に対してだけでなく、自分の内部に対しても追求と闘いを挑み続ける姿勢を「勇気」という言葉で表現してしまっていいのかどうか、けれど私はそれは「勇気」だと思った。

忘却を許さないこと。
事実のすり替えを許さないこと。
立ち向かい続けること。

そして、それらの傷を生む「戦争」というものを明らかにすること。

「人を見たら殺す。そうしなければ自分が死ぬ。」
それが彼等の体験してきたことだった。
イスラエルが陥っている状態を的確に捉えた言葉に聞こえた。
「どんな戦争でも戦争はやめてくれと言いたい」
そう、どんな戦争でも、陥る先はそういうことなんじゃないのかな。

悲しむばかりでもなく、怒るばかりでもなく。
さあ、私達に出来ることはなんだろうか?


※この映画はまだシアターイメージフォーラムでやってます。
ぴあで前売り1300円で売ってます。
なんというか、暗い気持ちになるばっかりの映画じゃないです。
「明日の神話」の精神に通じるものがあるかも知れないです。
行ける人は行けばいいと思う。

2006年05月27日

『宇宙戦争』2005

※ネタバレになるかもしれない記述が含まれています。ご注意。

うーん、しまった。おもしろい。スピルバーグのくせに。スピルバーグ作はいつも、おもしろいんだけど、むーん…、という感じなのに。これは素直におもしろいのだった。

ひたすら口を半開きにしているトム・クルーズ、ひたすら生意気でうるさくてむかつくダコタ・ファニング、こちらが観たいと思うとおりの役者の顔を見せてくれる満足感。(ダコタ・ファニング嫌い)
108分のタイトさで破壊と逃走と虐殺だけを描く潔さ。CGだけではなくきちんとセットを破壊することへの安心感。
そういった要素がきちんと機能していて、描写から連想させられる911やホロコーストなどを考える前に、良質な娯楽作としておもしろい。

とはいえ、全体に充満する暗さ、特にラストの、助かったというのに画面全体を占める寒々しさを気にしないわけにはいかない。

スピルバーグ作では父の喪失がよく主軸になる(by黒沢清)ようですが、ここでは逆に既に家族を失っているといえる父。ラストで息子が父に抱きつくものの、命がけで守った娘との真の和解の抱擁は描かれないまま。
息子との抱擁は家族の復活を示唆するものではなく、妹を守るより事の成り行きを見守りたいという自分の欲望を選び取った息子は「家族」を捨てた者であり、父と息子の抱擁は親子としてではなく、「家族」を喪失した者同士としての抱擁ではないだろうか。
生き残り、息子との和解を迎えたという喜びや祝祭感の一切ない情景、ほんの少しほほえむトム・クルーズの寂しそうな顔は、「失った」者同士の孤独な抱擁だからではないだろうか。

命がけで守っても、そしてそのために真の敵ではない「敵」を殺しても、「そこ・それ」とは隔絶しているということ、それは『ミュンヘン』をどうしたって思い起こさせる。

やはりスピルバーグはその作品群を観続けることによって本当に描こうとしているものが見えてくるという映画の作り方をしているのかなあ。と、この辺は全部、かつて読みかじった黒沢清氏の受け売りですが。黒沢さんのスピルバーグ論読みたいなあ。何で読めるか知ってる人教えて下さい。

そういった連なりによって紡がれるメッセージ性と、単体の娯楽作としておもしろいということを両立させているということにうっすら感動してしまいもするので、少しばかりスピルバーグ作をきちんと観るかという気になる。とはいえ、私には蓮実・黒沢両氏のガイドが必要。

2006年04月10日

『アワーミュージック』

■最初の公開で見逃していたため、今回イメージ・フォーラムでの再公開でやっと観ることが出来ました。

■ゴダールについて何かを述べることなどできない、という前提において、感想というより感覚。

■観終わったあとしばらく、ふわふわしていた。むき出しと言ったらいいのか、感じやすくなっていたと言えばいいのか。自分と街との間が遠く隔たるのとは逆で、街に自分が流れ出してしまっているがために距離感がつかめないような状態で、駅にたどり着く間の人混みをみただけでめまいがしたり、なぜか幼児大のぬいぐるみをむき身で抱えて階段を昇るおじいさんとすれ違っただけで泣けてきたり。抵抗力というか、抵抗というもの自体が取り払われていた感じ。無抵抗。
■なぜなのか、その時は考えなかった。ただ、映画にもたらされたその感覚を半ば楽しんだ。

■あまりにもまっすぐだ。あまりにもまっすぐに問題を語る。赤があまりに美しい。サラエボが痛ましくもあり、美しくもあり、魅力的でもある。うなだれた花々の濡れた赤。天国を描く。光が溢れる。
■愚直さや愚鈍さとは無縁のままに、わたしたちの抱える問題を真っ向から、生きているものの美しさまでも含めて、こんなふうに映画にすることが可能なのだと見せつけられたら、その後のわたしたちはどうすればいいのだろう?
■これはゴダールが自分をさらけ出したかけらなのか、逆によりいっそう見えにくくした結果なのか。優しさの結果なのか、韜晦の結果なのか。

■観客は多くなかったものの、ゴダールが頭をぶつけた瞬間に、うふふと笑いが満ちたので、一緒に観ていた観客達に恵まれた気分。

■感覚だけを書こうとするならこんな感じだ。感傷的過ぎる、けれどしょうがないか。そこから先を書くにはまだまだ勉強不足だ。

2006年03月30日

『鴛鴦歌合戦』1939

超弩級におもしろい。
という言葉を金井美恵子氏のエッセイ等で何十回となく読まされたにもかかわらず、超弩級どころの騒ぎじゃないじゃないかとあきれかえり笑顔がこみ上げ、幸せに呆然とする気持ちで映画の中の喜劇で笑い、それほど笑いがこみ上げてくるのはおもしろいからだけじゃなく幸せだからなのだと繰り返し、ただなんの軋轢もない世界にいるかのように緩みきった笑顔でへらへらとその映画の中に埋没するという経験を、幸せという言葉以外に言い表す力量がない。

この面白さを迂闊に言葉にしてしまったら、その面白さが縮小再生産されてしまう。ただ、こういう日本映画があることを知らずに日本の昔の映画は陰気くさいし地味だしと思っている人がいたならその人は不幸だと、断言できる。そういう映画。

実際のところ、話の筋だけを追えば結構ひどいことが起きているというのに、スコーンとどこまでも突き抜けていく空並みに突き抜けて、ただ晴れやかだとしかいいようがないのだ。
あれらの唄、冒頭の橋、絵日傘、そして「ちえっ」。

金井さんですら、超弩級におもしろい、というごく単純な言葉を使わずにはこの映画を評する事が出来ないほどに(もちろんそれだけじゃないけど)この映画は超弩級、なのだ。
自分の言葉でこの面白さを表せたらなあ。ちえぇ。
私には呆然とするしかできないや。

ただただ、金井さんの言葉を借りて、
超弩級の映画、
なのです。

2006年02月05日

『エリ、エリ、レマ サバクタニ』音

■飛ぶ。爆音。
■野外フェス好きは観に行け!観に行って下さい。観に行くといいと思う。観に行く人がいるといいなあ。
■映画の全貌に触れることはとりあえずムリ。今日観てきてまず伝えたいことがある!で、それは上記の通り。それ以上なし。それはノイズが全編の90%を占めるこの映画の中の一部であり核であるシーン。だだっぴろい草原に拡がる轟音。
■それは、フェスにいったことのある人なら誰もが味わったことのあるはずのわくわく感を、体の記憶から引きずり出す。否応なく。たとえばフジロックの朝、グリーンに入った瞬間にPA調整の音が山や空へ拡がりわたっていくのを聴く瞬間。その一日が、既に朝の強烈な太陽に強制早起きさせられたくたびれたものであっても、幸福感で一杯になる、どこまでも響いていく、あの音。否定を怖れずに言うなら、どんなフェスの記録映像よりも、体の記憶に呼応する。自分がフェスで得た体の記憶を呼び起こす音の拡がり。
■音のジャンルとか、話の内容とか、そういうものを全部すっ飛ばしても、あの拡がりがフィルム上に乗っかっていることのありえなさ加減を声を大にして言いたい!どこまでも、空の遠くまで、音が拡がっていくあの感覚こそ、私がフェスで一番楽しみにしてることなんだと、このシーンを観て逆に思い知らされた。決して泣くシーンでは無いだろうに、涙が出そうだった。感覚としてはほとんど泣いていた。喜びの涙。唐突に至福の感覚を呼び覚まされただけじゃない、こんなものを映画上に表出させてしまう人がいることへの喜び。
■それは、フェスの記憶がある人に限定されるわけではないかもしれない。ただただ轟音が響き渡る画面は、その拡がりによって、実際にそれを体験したことのない人にも、充分にそれを体感させていると言い得るものだから。それ。どこまでも拡がる音と一緒に自分も拡散する感覚、突然、体の中に風が行き渡ってあらゆるフタが開いて解放される感覚。オーバーすぎるかもしれないけど。あ、いや、私はフェスの記憶に直結してしまったけど、もしかしたらそういうことなんだろうか。

■だから、フェス好きの人は、なんだかフェスの楽しさが味わえるらしい、と騙されて観に行って欲しいのです。話の内容とか、音のジャンルとか、全然分かんなかったよ!という苦情は受け付けません。ただ、草原に響き渡る音をどう感じるかだけでいいっす。

■私が観に行ったのは新宿だけど、青山監督本人の日記によると新宿でも渋谷でも完璧な音響調整がされているようです。ちなみに新宿なら前から6列目以内が良いとか。吉祥寺バウスの爆音イベント以外でもこれだけの大きい音が聴けることにちょっと驚いた。システム的には出来てもやらないじゃん。両映画館は偉い。
■たとえメジャーじゃないマイナーな映画というレッテルを貼られるにしても、こうして良い音響環境、それはもちろん監督本人も望んだはずの環境、で上映されるということは映画にとっては幸福なことなのではないかと思います。上映する場所も、観る人間も選ぶ映画、でもそれはマイナーという言葉が持つ負のイメージ、閉鎖性とは無縁のものだと思いたい。私はこれを受け入れる側(理解とは別ね)にいるから公平性を欠くにしても言い切る。これは、受け入れようとする人間を拒むことはない。

『エリ、エリ、レマ サバクタニ』音

■エリエリ出演陣の中で誰に一番注目してしまったかといえば中原昌也氏なのだった。初めて動く中原氏を見たが、動きが何ともチャーミング、笑顔が何ともチャーミング。そして独特。映画初出演として、演技に関してまるっきりの素人ぶりを発揮するも、それが「許せる」どころか、もっとそれを見ていたいと思わせるチャーミングぶりである。あまりに中原さんが素敵なので、この物語の切なさが増幅されます。録音作業中の嬉しそうな氏、海に向かって「かなわないなあ」とつぶやく氏、発電自転車のシーンはシーン自体の美しさもあいまってめまいしそう。現在中原氏の物まねをするプチブーム続行中です。

■浅野さんは、あんなに汚くて(長髪+ヒゲ)も、ブサイク(ごつごつ+糸目)でもすごくキレイなのはなんなんだろう、って映画のこの人を見るといつも思う。今回もそう。アップでほほえむ浅野氏は向こう側が透けて見えるんじゃないかと思うくらい、異物感がないくせに存在感があって、ほほえみだけがそこに存在しているみたいで、果たしてあの人は生きている人間なんだろうかと不思議だ。『東京ゾンビ』や『アカルイミライ』でもそうだけど、暑苦しくなく男2人の友情を描くにはこの人が不可欠なんじゃないだろうか。『珈琲時光』での男女関係も含めて、儀式や形式を必要としない結びつきという人間関係を、当然のように存在させてしまえる人だ。

■怪物岡田茉莉子さん登場。なんなんですか、その存在感は。圧倒的な力は。かつて小津安二郎生誕100年シンポジウムでステージ上に立つ生岡田さんを見たときに生まれて初めて、本当にスターっているんだなと圧倒されました、この人に。完全に空気が違うんです、この人の周り。で、それはこの映画上でも一緒。威圧感というか存在感というか、あきらかに周囲とは異質でありながら、その異質さを平然と放出していることが、役柄にもがっつりはまっていて素晴らしい。過剰なもの、という言葉がどうしても浮かんでしまうが、その力はこの映画を美しいだけじゃない、「美しく力強いもの」に牽引する役を担っているように思える。なんて美しくて過剰な地母神なんだろう。

■あおいちゃんは『NANA』の予告編で見かけたのとは比べものにならないくらいかわいいし、筒井氏は素っ頓狂な服装をものの見事に自分のものにしているし、川津祐介さんは得体の知れなさ加減がすごすぎて、ほんの短い登場時間でありながら忘れることが出来ないし、あらためて思い返すとやたら個性の強い合戦だ。すごいなあ。

2006年01月22日

『動くな、死ね、甦れ!』1989

■ビデオで観て、スクリーンで観たいと思っていたものの1本をユーロスペースで観ることができた。
■以前観たときの記憶は、汽車越しに笑いあう2人のシーンに集約されていたので、今回観直してみていろいろと新しい思いをしたのだけれど、特に冒頭に無邪気にふざけあうこども達のシーンがあったのが意外だった。とにかくすさんだ空気に満ちた世界に生きる子供たちという印象が強かった映画の、冒頭に遊ぶこども達がいたことを、私はすっかり忘れていた。

■結局今回も、ラスト近くの汽車越しの2人の笑顔に魅せられた。他にも印象的なシーンが多くある中で、あのシーンはずば抜けて胸をつく。こども達の顔を正面からアップで捉えているのはおそらくこのシーンだけであり、そこで初めて2人は素直な喜びの笑顔を見せる。暗い冬の後、夏の光の中で軽やかな服装を身にまとった2人の、突然、そこでそうして生きていることの幸福感にとらわれ、体の中から沸き上がってくる理由のない喜びに身を任せた笑い。幸せだとか愛だとかそういう基準を超え、息をした瞬間に鼻から吸い込まれた空気が体に満ちていくことが唐突に無比の喜びとして笑いを呼び覚ますような。そうした喜びを共有しあい汽車の車輪越しに笑いあう幸せを思う様に満喫する、ほんの数秒間。
■負の要素を多く抱えた世界、たとえばそれは端的に人を殴ったり叩いたりするシーンの多さに現れており、みんなそれに慣れっこになっている。主人公の男の子も年少者を平気で殴るシーン、女の子はスケート泥棒を殴るシーンがあり、そういう世界に対応できるように育ってきたこどもが、今はこどもらしい無邪気さをもっているにせよ、大人になるにつれどうなってしまうのか不安になる感じなのだけど、その瞬間のただただ笑い合う顔を見て、こうして笑いあうことができたならこの先だってきっと大丈夫だと、おろかにも私は安心する。

■けれど、直後にその安心は白紙に戻される。その後の出来事に、笑顔の記憶が鮮烈であるがためにより強い悲しみを感じるものの、監督はその悲しみに浸らせてくれることさえしない、あの奇妙なラストシーンをもってくる。あまりに過剰で滑稽にも見えるあのラストに唖然としてしまい、観ている側は受けた悲しみのもって行き場が無くなる。あまりにも悲しむ人が画面の中におり、その突拍子も無さに私たちはその世界に属さないこと、スクリーンの外にいることを突き放すように知らされる。画面だけでなく、監督がカメラに指示を出す声まで入れられ、「そこ」と「ここ」との隔絶を力ずくで自覚させる。その突き放しこそがその世界の自己中心さを表しているようでもあるし、悲しみに浸ることなど(狂わない限り)不可能な世界の過酷さを表しているようにも見える。が、結局のところあのラストはなんなんだろう。

■ほんの105分のなかにどうやって収められているのかわからないほど多くの情景が現れ、とても長い映画を観ているような気持ちになる。かといって散漫になることはない。
■狂った教授が泥だんごを食い、そのアップが吹雪にかすむシーンは目の周囲だけが銅版画のように映し出されて、キリストの最後を描いた宗教画を連想する。
■浅瀬を駆け抜けるシーンの景色にすごくどきどきする。しかし、どきっとするシーンを数え上げていたらきりがない。

■白黒の画面も美しい豊かな映画。それらの画面をスクリーンで観ることが出来て良かった。画面の大きさだけが問題なのではなく、それに対応する空間の拡がりも必要なんだと思う。音が空間に拡がり反響して豊かになるように、光も空間に拡がり反響することでそのちからを増幅させるように思える。

■続編の『ひとりで生きる』が観たい観たい観たいよう!

2006年01月08日

『愛より強い旅』

■邦題の意味が分かりません!原題の『exils』(流浪者、追放された人)というのがすごく直球なんだけどな。そんなジプシーアイデンティティのトニー・ガトリフ監督作。前作の『僕のスウィング』がちょっと見やすかったのは子供が主役だったせいで、決してこの人の過剰さは方向転換していないのだな、と初っ端から痛感させられる主役2人の全裸でスタート。
■全編、情感、激情、激情の秘められた静謐ともいうべき空気に満ちみちて破裂しそうだ。とにかく私はラテン圏では暮らせねえ、ラティーノと仲良くなる自信もねえ。と、主役の1人であるナイマを見て思うのでした。しらふであんなテンションの人たち怖い。あ、でも似たような友人がいたような気もする。。。何かの精神的傷から逃げるがための精神の浮揚。旅が進むにつれてナイマの方に目がいく。笑顔すらが悪女、淫乱を演じているように見え、それが通用しない場では他人のことに目を向けられないちいさな子供ようにも見える彼女。ここでスーフィー教の儀式が果たした役割については訳が分からないので言及しないとして、オレンジを二つに割る彼女の、最後の笑顔はすばらしく素敵だ。
■ルーツを探る必要すら無い自分には、この放浪の真の目的は分からないが、放浪のもたらす効果はなんとなく分かる。分かるというか体感したい。だれでも埋めたい空白は自身のうちにあるはずだ。

■音楽がとにかくすごい。ジプシー的なものだけでなくとにかく濃密としか言えない。クラブなどでひたすら踊り続けているうちにややトランス状態に入ったことのある人ならスーフィーのシーンで一緒に飛ぶがいいさ。くらくらしたさ。

2006年01月06日

『浮雲』1955

■林芙美子原作+成瀬巳喜男監督というゴールデンコンビ。
■話の内容は、ダメ男とダメ男に惚れ抜いてしまうダメ女たち。これに尽きる。その中でも一番腐れ縁となるのが主人公の高峰秀子といった案配だ。ダメ男がどれくらいダメかといえば、戦後すぐに結婚するつもりで東京に出てきた秀子を捨てておきながら、生活苦のあげくにオンリーさんになった秀子のところに来て「泊まってっていいかい。商売の邪魔かな」などと平気で言うわ、心中するつもりで行った先の伊香保の美人妻とできちゃうわのダメっぷり。この男がいかにダメか、そしてそれに惚れ続ける女がいかに墜ちるかを全編通して描きまくる映画です。

■だからってイライラする映画じゃない。千駄ヶ谷や代々木上原辺りの復興マーケット、バラック、長屋、あときっと伊香保の路地もセットなのだろうけど、さすがにセットがすごいという成瀬監督、その作り込みの奥行きの深さが素晴らしくて、セットを眺めて感心しているだけで映画は終わってしまうかも。長屋で遊ぶこども達もいい感じだし、復興マーケットの雑然とした雰囲気もちょっとわくわくしてしまう。
■最後には屋久島まで出てきてしまうのだけど、当時の屋久島ってすさまじい!これは実際にロケに行ったのかなあ。

■秀子がその時その時の自分の置かれている状況に応じてどんどん雰囲気を変えていくのがすごい。岡田茉莉子は怖かったなあ、男を手玉に取る感じ。
■主役2人が歩くときに常に流れる音楽が出会った土地インドを思わせる音楽で、途中は分かりやすい演出だなあなどとみくびっていると、最後の最後に効いてくる。もう歩けない秀子とやっとその当時に思いを馳せるダメ男、そこに掛かる2人の曲。にくいなー。

■ストーリーだけ追えばドロドロの救いようのない話だし、実際に見ても救いようの無い話なのだけれど、画面ごとに現れてくる情景に心を奪われる方が強かった。セットだけじゃなく、そのシーンごとの役者の顔とかも。画面の持つ力がものすごく強い、と言うのでしょうか。物語などよりも情景が強く心に残る映画でした。

2006年01月05日

『エレファント』2003

■善悪の判断の排除、作り手の価値観の排除。すべてをなげうっているように見えるが、すべての判断を放棄しているように見えるからこそ現れるもの。すべてを観客に委ねているようで、1つの確固とした思いがここにはあるように見える。つまり、そこにはただ日常があったということ、そこにはただ様々な高校生がいたということ。
■地元の高校生達を使って、大まかな設定だけで撮ったという作品だが、素人を起用したという感じは全然ない。そこには確実に作り物ののなのに本当の高校生活が生まれている。なんなんだろう、奥の奥まで行ってもどこを覗いても、カメラのフレームの外でもこの高校は存在していると思わされる画面の豊かさ。
■歩く登場人物達を追い続けるカメラの動きにどきどきさせられるのはなぜだろう?かれらの視線を盗み見ているような感覚になるから?
■時間が入れ替わり立ち替わり交錯していくのを見ていくうちにどんどん苦しくなっていく。登場人物達の個性が生き生きと立ち現れてくると同時に、一体誰が生き残るのか、どうやって死んでいくのか、どうやって殺していくのか、それを意識しないわけにはいかないからだ。

■うーん、すごい映画だった。むしろこのすごさを予想しているからこそ怖くて今まで観られなかった。人生の断片を見せられる感覚、それがごく普通の生活の延長として奪い去られるのを見せられること。狂気とは無縁のごく普通の思考の流れとして虐殺にたどり着くこと。境界など無いということは知らないままでいたい/知らなければならない。

2005年11月29日

『青の稲妻』追記:2段腹の謎

■一昨日書きそびれたけど、映画の中で一番衝撃的なシーンはホテルでの女の子のたぷたぷの2段腹かもしれない。主人公の片割れの恋の相手であり、娼婦であり、酒造メーカーのキャンペーンガールでもあるヒロインの、一番露出の多いシーンで、どうして監督はヒロインを美しく撮らなかったのだろう。それがリアルだから?それにしてもわざわざたるんだお腹を強調しているようにしか思えない。ぴったりとした体型の出るウェストマークのスリムパンツに隠れたお腹はわざわざごはんを食べさせた後のようにふくらんでいるし、ウェストマークのパンツではよほど鍛えたお腹でなければ座ったときにはみ出した肉がズボンの上にたるむのは当然だし、チューブタイプでフロントホックのストラップレスブラジャーは胸を押しつぶす形になるから、洋服の上からはあれほどスタイルのよく見えたヒロインは、(少年らしい体つきの主人公との対比もあり余計に)全身のたるんだ老女の様に見えてしまう。
■もちろん、上に着ていたのがホルターネックだったとか、直前のシーンが食事のシーンだったといったことで説明はつくけれど、それならばなぜ、ホルターネックの上着だけを脱がせたのかっことだ。ズボンも脱いで下着姿になってしまえばズボンの上に肉は垂れないし、ベッドの上で枕を背にあててくったりとした座り方をしなければお腹の肉はそんなに寄らない。たとえ太っていても美しく撮ろうと思えばいくらでも方策はあるはずで、要するに、監督はわざとヒロインの裸(ブラジャー付きの上半身)を醜く撮った、としか思えないわけで、それが一体どうしてなのか、すごく気になる。
■そもそも、女の子をきれいに撮ろうとしてないか、この監督?既定の価値観への抵抗といったものではないと思うし、わざとだと思うんだよなあ。

2005年11月27日

『青の稲妻』2002

■中国のジャ・ジャンクー監督という人の3作目。名前を聞いたことがあるだけで何の予備知識も無しに観たのだけど、冒頭にオフィス北野の文字が。そのせいかどうなのか、観ながら『キッズ・リターン』を思い出してしょうがなかった。北野映画の中でも乾いている印象の『キッズ・リターン』をさらに乾かした感じ。あと2人乗り。ぐるぐる廻る自転車。
■痛いようで痛すぎず、乾ききっているようで鬱屈している精神。それが殺伐とした風景と相まって何とも言えず、うーん、乾いた感じとしか表現できない。空気感がとにかく乾いている。現在起きていることと自分との間に一枚の皮膜があるような感じなのか、あくまでもレンズを通しているということを知らしめる冷徹さなのか。そこ(に映っているもの)とここ(にあるもの)とはあくまでも別だと宣言されているような感じなんだよな。共感させる隙を与えないように細心の注意を払っている?訳分からなくなってきたのでやめよう。
■ウェッティになりすぎる前の北野映画を好きな人は好きだろうな。私は結構好きだ。ただ、オフィス北野製作じゃない作品を観てみたい。
■『パルプ・フィクション』へのオマージュのような描写はなんなの?ディスコでのあの踊りはいらないのでは。それとも中国の若者の「アメリカ」を代表させてアレなのかな。
■短髪の男の子が部分的に窪塚洋介に似ている。目のあたり。

■途中のセリフで分かったんだけど、なんと舞台が「大同(ダートン)」。私の愛読書「見仏記 海外編」で、みうら&いとうが2人ぽっちで夜汽車に揺られて行った、あの「ダートン!」だよ。もうそこが気になってしょうがなかった。これがあのダートンかあ、と思って。今本を見直してみたら、大同のホテルから雲崗石窟に向かう道筋を評してみうらさんが「ウェスタン入ってるね。あらくれてるよ。」と言っている。さすが的確、です。緑が無いんだよね、画面の中に。でもだだっ広い。それにしても、2002年に撮られたこの映画のラストでは北京からの高速道路が開通するし、たしか今は高速鉄道も通ったはず。2人はもう夜汽車にくたくたにならなくても仏像を見に行けるわけだ。うん、話がそれた。

2005年07月12日

『大いなる休暇』

■予告編の小倉久寛のいやしっす!なごむっす!いいひとですから!節全開のナレーション(オリジナルだからいいのであって、決してマジ真似してはいけないウルルンの俗悪なパロディのような)には反吐が出そうなほどの嫌悪感を感じたのに、こういう小品をかわいらしさというか媚びたような雰囲気で売るのはもういい加減やめたらどうだと思うようなイラストがちらしに書かれていたのに、それでも観に行ってしまったのは、寂れた島の失業者達であるじじい達が、工場誘致の条件である医者を定住させるために一丸となって「この島いいぞ??うそっぱち作戦」を繰り広げる様を見たかったからだ。
■で、繰り広げるさまは地味ながらじんわりと笑わしてくれるもので楽しかった。医者の電話に盗聴器を仕掛けたり、クリケットなんて見たこともないのに島の伝統だと言ってみたり、父親を知らない医者にいもしない息子が今生きていれば30歳だといってみたり、冷凍の魚を釣り針に引っかけてみたり、老人の何をも恐れないしたたかさには舌をまく。あくまでも獲物である医者を釣り上げるというアプローチなのだよね。で、医者は(多分ドラッグで脳みそがゆるんでるから)そうした作戦にまるっきり気がつかない、というのがこの話の一番重要なところ。一個一個のギャグが面白いというよりは、全体の流れで笑わせてくれる。

■でも、この映画自体に対する評価は微妙。大まかに見て面白いのだけど、全体の印象もおおまかなのだ。観終わったときは、老人達のこの島に対する執着や、元漁師としての絶望感、工場誘致に伴う疑問などがまるで描かれていない事への不満かと思った。でも、社会派的な描写をして欲しいわけではなく、この「大体」な印象は何なのかよく分からない。で、ふと「やまのかいしゃ」という絵本を思い出した。
■主人公のほげたさんは寝坊して会社に行くも電車を乗り間違えて山のある駅まで来てしまい、今日は山の会社へ出勤だ!とありもしない仮想支社へ出社するつもりで山頂へ。そこがあまりに気持ちいいので会社に電話をすると社長以下社員みんなが山の会社へ。結局山の上じゃ仕事に不便なので、山の上の支社はほげたさんとほいさくんに任せてみんなは町に帰っていくのだが、今でも2人は山の上の会社に通っているのです、という「やまのがっこう」ならそうでもないはずなのだが「かいしゃ」であるがために頭がどうかしているのではないかと思わずにいられないおとぎ話的お話の絵本なのだが、この絵本がただのありえないはなしで片づけられないのは片山健の絵の力のためだ。きれいとは言えない絵だが、妙に説得力と現実感のある絵。「タンゲくん」でも、細部まで書き込まれた絵の一枚一枚に見とれる、というより唖然としてしまう。
■で、なぜ延々と関係のない絵本の話を書いているのか自分に問い返さなければいけないほど延々と書いているが、要するに、それだけ荒唐無稽な話も説得力のある描写で「おとぎ話」とは一線を画してしまうという事実だ。社会派の描写という意味ではなく、この島の人たちの生活をもっと感じさせて欲しかった。新しくやってくる医者に対して、その島に生き続けているひとたちの匂いのようなものを嗅がせてほしかった。その点が残念。
■失業の問題や、それに伴うすさみも言葉ではなく匂いでみせてくれい。

■とはいえ、医者役の役者はよい。常に緩んでいる口元がよい。主役格の役者(夫婦2組に銀行員)はみんな安定感があって安心して見ていられる。

■テーマとしても、深く考え出すと、それほどに(工場を誘致することのリスクや時間労働で使われることのやるせなさを考慮する余裕もないほどに)失業状態の深刻さが骨まで沁みるほどの状況にあるということ、を考えてしまうのだけれど、それはきっとこの映画で考えるべき事ではないんだろう。
■とはいえ、『わが谷は緑なりき』ではぎりぎりで誇りを保てる状況だった熟練工としての労働者達は『フルモンティ』で個人のアイデンティティを獲得することで失業によって失った誇りを取り戻し、『大いなる休暇』では漁師というアイデンティティを奪われた後に工場を誘致することで単純労働者として誇りを取り戻す、という一回転ぶりを考えずにはいられない。なんだか皮肉じゃない?

2005年06月23日

あんぱんとペヤング/『阿賀に生きる』追記

■『阿賀に生きる』の中で妙に記憶に刻み込まれてしまったのは、加藤のおばあちゃんが寝ているまくらもとに、ヤマザキの白あんパン(つぶいり)が置かれていたのと、同じくばあちゃんが囲炉裏端でペヤングを食べている姿だ。一人暮らしのわびしいすがたなどを想像してはいけない。なにしろ隣ではおじいちゃんが、いかにも囲炉裏用といったデカイ鍋につくられたみそ汁を旨そうに食い、具を鍋から直箸でとっては、おばあちゃんと「箸でとるんでねえよ」「とってねえよ」「とったでねえの、ばか」といった夫婦漫才を繰り広げるのだ。
■その二つが印象的なのは、懐古的とも受け取られかねない『生きる』が映し出す生活の中で、異色的に現れる「商品」だからではなく、単に、そういうものを食べる老人、というシチュエーションに自分が何故か弱いからだ。アイスを食べるとかもそうだ。なんなんだろう、これ。年齢の隔絶した彼らと自分の接点、というか、時間の並列性を感じるからだろうか?それとも、そういうものを食べるに至った過程(たとえば、孫や誰かに食べさせようと思って買ってみて、自分もたべるようになったというような、誰かへの思いやりの歴史)などを勝手に想像するからだろうか?
■まあ、単におばあちゃんとペヤング、囲炉裏とペヤングというギャップにやられているのかもしれない。あんぱん好きなおばあちゃん、というイメージのかわいらしさにやられてるのかもしれない。ずいぶん単純で俗な感性だ。けれど、『生きる』はそういうアイテムを姑息に使う類の映画ではないので、私は安心してそれを事実として受け入れ、おばあちゃんナイス!とにんまりできる。

2005年06月22日

『阿賀の記憶』

■残酷なまでの徹底した「不在」にさらされる55分。



■『阿賀に生きる』から10年。そこに生きていた人々が、そこに生きていない現在。
■今作は、人々の生活を追うことはせず、かつての映像や、音声とともに、その人達のかつていた場所を映し出す。ひたすらに「不在」を映し出す。
■ちらし等で「新たな主役」と書かれていたおじいさんは、田んぼや林に佇み朗々と歌を歌い上げる、昔話を語る。けれど、話す声はラーメンを食べる姿に重ねられ、おじいさんの実体、生活はみえてこない。まるで、かつての記憶の総体として生まれ出た妖精のようにおじいさんは笑顔でそこかしこに佇み、歌声が川の上を流れていく。かつてそこにあったもの、そこに染みついているものの具現化のような実体感のなさ。



■あの人は今、的な「生活を追う」形はまるでなかった。「あの10年後」のイメージのつなぎ合わせだった。そして、それはそうでなければいけないものだった。3年にもわたる煮詰まっていく共同生活の中で密着しながら撮り上げた『生きる』と同じアプローチで「生きる」ことを撮ることは不可能だ。もしそれを無理にやろうとすれば、足りない強度を何かしらの物語で補う事になってしまうだろう。あの続編は、続編はありえないことを見つめる残酷さでしか存在しえないのかもしれない。
■そんな映画だから、『記憶』は、前作を観ていない人にはまるで伝わらないと思う。この映画を単体でどう評価するか、はとても難しい。すべりこみで『生きる』を観たじぶんとしては、同時上映してくれた「ポレポレ東中野」に感謝しなければ。ただ、ほんの数日前に「生きる」人々に出会った身として、この不在はあまりにも辛い体験でした。あまりにも徹底した「生きてない」、そこにいない感覚。あるいはもうそこで「生きる」人々とは隔絶してしまったことを受け入れるための儀式のような不在。



■これは『生きる』の続編ではなく、『生きる』を題材とした「不在」を表現することの挑戦だ。
■そして、その「不在」にうちのめされる。

2005年06月19日

『阿賀に生きる』1992

■ただただ、生きる人たちの姿をみた2時間。

■「ポレポレ東中野」にて鑑賞。今作の続編である『阿賀の記憶』上映記念として、その他の佐藤真監督作も上映されているのだ。『阿賀に生きる』についてのめったやたらに高い評価は以前から読んでいて、今まで観たいという思いだけをあたためていた。
■今作は、監督・スタッフが現地に住み込み、3年をかけて、新潟水俣病の被害者を中心に阿賀野川に暮らす人々の暮らしを追ったドキュメンタリー。当初は確か半年ほどの撮影を予定していたのが、地域の人々の魅力にやられてどんどん撮影期間が延び、さらにもっと「問題を扱う」ようなアプローチをするはずが、その「魅力」を伝えることがメインになった作品で、つまり、とにかくそこに生きるじじばば達の魅力にやられてしまいなさい、という映画だ。と思っていた。

■間違いなかった。これは、本当にただ、そこに「生きる人たち」の魅力を伝えるための2時間なのだった。ドキュメンタリーというのは、現実を使った物語の再構成、あるいは抽出ともいえる。そこに主題がある限り、なんらかの物語化は避けられない。今作にも、水俣病の人々の暮らし、高齢化の進む過疎の地、といった主題を掲げていたはずだ。しかし、監督はすべての物語を投げ出し、ただ人々の生活を映すものとして映画を仕上げた。そうすることがいかに難しいことか、ちょっとテレビのドキュメンタリーなどを見れば私にだって分かる。新潟水俣病という主軸はあるが、その視点からのみ捉えるにはあまりに魅力的な人々を物語の中に閉じこめることは愚かしいことだというように編集された「記録」。自分の周囲に溢れる物事から無意識に選び取って「現実」ができあがる。そして佐藤監督は、じじばばたちが魅力的だ、という現実1点を強い意識を持って選び取ったのだろう。
■どの側面も1本の物語となり得るだけの要素を持っている。元舟大工が弟子を迎え5年ぶりに木舟を新造する。昭和40年にダムができてサケが来なくなって以来「カギ針漁」をやめていた半農半漁だった人が、支川の人々の協力で再び漁を経験する。新潟水俣病の原因会社への根強い親近感と、そこに勤めていながら証言台に立った人の現在。それらを物語化する誘惑をはねつけることの出来た監督がすごい。
■物語化を拒否する強烈な魅力。舟が出来上がる瞬間の舟大工の表情、山の中に点在する田を守り続ける遠藤さん夫妻の歌、餅屋の加藤さん夫妻のかけあい漫才のような会話。

■続編の『阿賀の記憶』を、またあの人達に出会いたいという気持ちだけで観たいと思う。そうだ、これは「人々」ではなく、あの人の、あの人の、あの人の、と顔を思い浮かべることのできる、「あの人達」の生きる姿を見る記録だ。

■映画にもでていた旗野さんという人が仕掛け人だったことをこの記事を読んで知った。仕掛け人が「宝もんみたいな人たち」として撮ることを望んでいたなら、こういう映画になるのも必然か。しかし映画の中の若き旗野氏は、じじばばたち同様、「あの人」としてそこにいた。旗野氏は自分までがそのように映し出されることを予想は出来ただろうか。
■ちなみに、やはり映画館の大きなスクリーンで観ることが出来てよかった。テレビ画面ではきっとじじばば達の照り輝く頬、とくに加藤(妻)さんのおふくさんのような見事な照り!、は堪能出来なかっただろうから。

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