2005年11月28日

『珈琲時光』2003

■2003年の12月の小津監督生誕100周年記念イベントでこの映画の第1稿を観ることができ、その時は浅野忠信の醸し出す透明な空気感に改めて感心したのだけれど、その後の公開時に、その時の『珈琲時光』と公開された『珈琲時光』は(良い意味で)まるで別の映画のようで、編集というモノがいかに映画に於いて重要かということを知らしめられた、というようなことを誰かが書いていていたのを読んだにも関わらず、ぼやぼやしているうちに観逃していたのをやっと観た。
■何しろ最初に観てから2年が経ってしまったのでいろいろと記憶は抜け落ちているものの、話の流れも、個々のシーンも思ったよりは覚えていて、それでも全体を通すリズムが変わったのか、重点を置く部分が変わっていたせいか、やはり初めて観る映画のように感じた。いろいろと比較してみたいものの、ペドロ・コスタの後ろ頭も愛でつつ観た、2年前の『珈琲時光』を観ることは2度と無いのだと思うと何だか不思議な気分だ。

■出てくる景色はごく普通にイメージできる東京や東京近縁だし、出てくる人は日本の名の知られた役者達だし、もちろん日本語を話しているし、山手線や中央線や都電や御茶ノ水など、ごく身近な見慣れた景色でありながら、この映画はどう観たって、どこを切り取ったってホウ・シャオシェン監督の映画になっている。定位置に据えられたカメラや、カウンターに並んでソバを食べたり、お隣にお酒を借りに行くといった小津的な要素をちりばめても、なぜだか、どうしてだか、侯孝賢作品以外の何物でもあり得ない。
■画面の構成、リズムの取り方、カットの長さ。静かな作風でありながら画面から受け取る強度は、『冬冬の夏休み』を観たときに、何でもないはずの夏の景色を、まるでそこに自分が生きているかのように感じさせられたせいで分かっていたのだけれど、こうして自分の土地ではない場所で、自分の言語ではない言葉で撮っても、その強度は少しも変わることがない、ということに今さらながら感動してしまう。その感動は、侯孝賢の才能にというよりも、侯孝賢の強度によって映し出された東京(と吉井町)を観ることが出来る幸運にと言うべきかも。『珈琲時光』に映し出される東京は紛れもなく今の東京で、映画として映し出されたものなのに、ごく個人的な記憶と結びつく匂いや音や空気感から呼び起こされる町への親しみや、まるで知らない土地で感じるそうした錯覚とがないまぜになったような、不思議な感覚になる。台湾の郊外も台湾の人々も知らないのに、その土地を生きてしまったような感覚にさせられたように、「東京」を生きたような感覚にさせられる。それは東京ではなく「東京」でありながら、そのままの東京でもある。馴染みのない吉井町はまるで「冬冬」の台湾郊外にも見えるけど。

■御茶ノ水の中央線と総武線と丸の内線の線路が交差している場所が何度も映し出され、一番ラストにすべての線路を列車が通っていく絵面は、単純にかっこよいし、主人公の2人で過ごす時間が大幅に増えた公開版を観ると、2人の心の動きと連動しているとも見え、あの風景がそんな繊細な表現に使われますか、となんとも虚を突かれる感じ。
■とにもかくにも、自分が実際に生きている「東京」、土地勘のある神保町界隈などを、侯孝賢を通して観ることの出来る幸せ、これに尽きる。もちろん、東京を知らない人が見ても、私にとっての台湾のように、その場所を生きてしまうのだろうけど。

2005年10月16日

『銀河ヒッチハイク・ガイド』

■すべてをやりっぱなしでほったらかし。
■どうでもいいところにどうでもよさが程良く配置されている。
■ゆるい。
■何も解明させないままの解決。
■さて、こんな言葉は誉め言葉です。

■これは好き嫌いが分かれそう。と言いつつ、うひひと含み笑い。私はこれ、かなり好きです。なぜならとってもイギリスだから。イギリスていうか、イギリスコメディていうか、要するにモンティ・パイソンです。映画のパイソン臭いです。冒頭に延々続くイルカミュージカルからすでにニヤニヤが止まりませんでした。
■モンティ・パイソン好きな人なら観ても怒り出さないはず。そう、人によっては怒りかねない、というほどに全体のトーンがすごくゆるい。ゆるゆるで、途中で飽きちゃうんじゃないかという不安を心の片隅に抱えながら、うへへいとにやけ笑いをするトーン。パイソンフリークなら『ライフ・オブ・ブライアン』のなんともいえないゆるさの中に中毒性が含まれている、あの感じを思い浮かべていただければいいかと。いや、これは誉めすぎかなあ。
■でも嬉しかったですね。今のイギリスコメディがどんな感じなのか全然知らないのですが、モンティ・パイソン的な映画が未だにつくられちゃうんだから。6畳1間に10人の活動家がオケツ丸出しで隠れているところに100人のローマ兵がガサ入れに入って「誰もいませんでした」って報告しちゃうような、そんな雰囲気が全編にわたって充満してるから。バカしか出てこない映画。
■パイソン知らない人にはまるで分からない感想を延々と続けてしまうほどに、うひひひとにやける嬉しさなのですよ。パイソンのような過激さは無いけど、これはこれでとても好きだ。この映画が好きって人でパイソンを知らない人がいたらぜひパイソンをオススメします。だからパイソン知らない人にも観て欲しいなあ。
■とはいえ、DVDのようにいつでも停止できる状態で観ていたら危険。だってほんとにゆるいから。映画館のようにある程度緊張を強いられる状態で観た方がいい。見続ければきちんと中毒性が襲ってくるはず。いや、万人にとは言えないけど。


■要するに、モンティ・パイソンのイメージに頼る以外にこの映画のむふむふな面白さを形容できない。
■ころげる大量のヴォゴン人は見物。かわいい。
■マルコヴィッチってすごい役者だ。オリヴェイラ監督作からヒッチハイクまでどんな映画でもどんな役柄でもマルコヴィッチ。素敵。
■カルトSF扱いの原作がどんな感じなのか気になる。このままなのか?

2005年09月20日

『孔雀夫人』(1936)

■ウイリアム・ワイラーという名前より、『ローマの休日』『オシャレ泥棒』『ベン・ハー』といった作品名の方がなじみ深い監督(要するに何となく食指が動かない監督)の作品を観てみようと思ったのは、映画の妖精である淀川さんが「ゴールドウィン製作+ウイリアム・ワイラー監督」という組合せをやたらに絶賛していたから。製作って、いまだにその重要性がよく分からないのだけど、淀川長治, 山田宏一, 蓮實 重彦が語り合う『映画千夜一夜』のゴールドウィンの章を読んだらどうしたって「ゴールドウィンプレゼンツ」の映画を観たくなってしまう。そんなわけでこの1本。
■働き尽くして充分な資産を築いた旦那が仕事をリタイアし、余生を楽しく暮らすためと妻の希望もあって欧州を旅するのだけど、無邪気な観光客として旅先で見るものすべてに感動する旦那に対し、妻は行く先々で浮気を繰り返し、浮ついた社交界に夢中。それでも旦那は妻を愛してすべてを許し続けるのだけれど、最後には。。。といった単純きわまりないストーリー。小さなテレビで見ているせいもあって、はあ??とため息をついてしまうような感じもなかったのだけど、それでも最後の駆け引きまでぐぐっと引き込まれて見てしまった。要するに普通に娯楽作として面白かったのです。

■といいつつも、「これは、すげえ。。。」と思わず口をぽかりと開けてしまったのは、最後の船のシーン。映画の始めでは美しくあぶなっかしいながらも、どこか野暮ったい、貞節を守る女だった妻が、最後のシーンでは、身につけた垢抜けした美しさとは真逆の、いやしいというかいやらしい卑屈さで元恋人の悪口や友人のうわさ話をする、その顔。すさまじい。精神のすさんだ人はこんなに美しくてもこんなに醜く見えてしまうのね、人ってこんなに変わるのね、という恐ろしさを表情と声の調子だけで存分に味わわせてくれる。「本当に降りたわ!」と言う瞬間の顔といったら、もう!淀川さんがこどもの頃からこういう映画を一杯観て「女の人というのは怖いなあと思いましたよ」というのも仕方ないです。怖いもん。美しさに磨きが掛かっていくにつれ精神が貧しくなっていく、なんていうのはありきたりにも程があると思うのだけれど、実際にこの映画を観たら「ありきたり」だけでは済ませなくなる。「こわいなあ」て言いたくなる。
■もっと女の人が怖い、女の子も怖いらしい『この三人』も観てみなくては。

2005年09月15日

『クリスタルボイジャー』(爆音)

■気持ちいー!!!
■としか、言いようがないですね、これは。サーフにひとかけらの縁がなくたって、この気持ちよさはたまらない。惜しむらくは波に揺られる感覚すら思い出せないこと。前半のサーフバカ1代記はとにかく波に乗っている人を見て、その疾走感と浮遊感と無重力感にわくわくしながら完全リラックス!はい、準備体操完全に仕上がりましたら、後半、ピンクフロイドのechoesで波にまみれてまみれて、上下左右も分からないままにただひたすらまみれて気持ちいい!
■思考を完全に奪われて体ごとすべて投げ出して、持っていかれるままに揺さぶられて。感覚だけのかたまりになって。蛇口から出てくる水の流れをぼーっと眺めたり、石に当たってできる川の中の渦を延々眺めたり。そんな意識の宇宙への旅スーパーデラックスバージョン。
■echoesの20分は完全トリップだあ。危険だあ。中毒性あり。

■二つの映画を無理矢理つなげた、とは知っていたが、実際のところつなげてすらいないのは笑った。完全に2本の独立した映画だよ。とはいえ、上でも書いたように後半のechoesへの導入として前半のサーフバカは欠かせない、とも思う。計算か?だとしたら畏るべし。
■それにしてもこれこそスクリーン+爆音で観ることが運命づけられている映画だ!セリフがほとんどないせいか爆音度もすごい高いし、波と音に溺れているかのように、もはや自分が固体を保っているのか怪しくなるほどに、スクリーンと爆音に攻められ身を委ねる快感はどんな大画面テレビでも味わえないって。むしろ家で観てたら飽きて途中で寝てたかも。世に爆音のなかりせば。。。サーフ映画なんて観なかったよ!
■完全に知覚を揺すぶられきった。すっげーすっげー。

2005年06月26日

『ココロ、オドル』(爆音remix)

週末爆音自慢の黒沢清監督トークショーが監督の体調不良のために中止になってしまい、かわりに去年「invitatiion」の付録として製作され、去年の爆音限定で上映されたという『ココロ、オドル』の「爆音リミックスバージョン」が上映された。この作品自体を観たことがなかったので、元の音はどのようにつけられていたのか分からないが、セリフがないのをいいことに(?)、リミックス担当(樋口氏)やりたい放題感があって、音付け作業は相当楽しかったであろうことが予想されます。爆音の本領発揮。



■それにしても、映画自体はどう捉えていいのか困ってしまった。実験映画的で、演劇的な振り付けをされた動き、見ていてこそばゆい感じの20分。『回路』で武田真治のしゃべり方につい片頬が上がってしまうのと同類の居心地の悪さを感じた。祝祭のシーンも、レイブを舞台的に再現させてみたといった気恥ずかしさだった。ああいうものを「作る」のってほんとむずかしい。同じく『回路』の植木屋の社長のわざとらしいしゃべり方は、その作り込み方がよい形になっていると思うのだが、それは切り替えのシーンで、流れる背景にかすかな風を受けて立つ浅野忠信を合成するシーンに対応するでしょうか?なんで『回路』と対応させているのか自分でもよく分かりませんが。私の数少なく偏った映画知識では、『ラ・パロマ』のアルプスの山の上に浮かんで歌う2人を思い出しました。不可思議で変なの、と思いつつ拒否できない感じ。



■にしても変な短編。とはいえそこは黒沢清監督なので、ここから何かを発見しなければいけないという強迫観念に駆られ、「変なの」と言って忘れてしまうわけにもいかず、困っております。全体の雰囲気自体はやっぱりちょっとダニエル・シュミットっぽくて面白いのだけど、役者達の演劇的な動きに気恥ずかしさを感じるのが先だし、でもなぜあえてああいう演出だったのか、一体ここにはなにが詰め込まれているのか、考えずにはいられなくてほんとこまっちまうっす。

2005年06月03日

『顔役暁に死す』1961

■はぁー、スマート!時代の泥臭くささなし。からっとしていて軽妙でかっこいい。無駄な感じがいっさいない小気味よいテンポ。映画が大量生産されていた時代の良いコンパクトさ。大仰な音楽もきっちりはまって気持ちいい。きちんとした娯楽作を見られた満足感があります。
■加山雄三がすごくよくてびっくり。もっとバタ臭いイメージだったのになあ。ちょっと「タイガー&ドラゴン」の小虎(長瀬)を思い出しました。いかにもいろんな修羅場を乗り越えてきた余裕、男臭さいのに鼻につかない。まあ、小虎の方がだいぶおばかですが。あ、「やんちゃ」という言葉が似合う共通点。描き方の方向は違うけど、そういうキャラクターを兄貴的、ホモ・ソーシャル(セクシャルの方じゃなくてね)的に描かないというところがいいっす。あ、ていうとイーストウッドとかハワード・ホークスとかも思い出すけど、「虎&竜」からハワード・ホークスじゃ意識拡散しすぎだ、自分。
■やくざ、キャバレー、抗争といったおきまりのノルマをこれだけスマートに仕立て上げられるものなんだな。鈴木清順のきてれつな感じも好きだけど、こんな真っ向勝負で面白いのも感動的。時間と予算の都合により文芸坐の特集には行けてないのですが、他の岡本喜八作品も観なくちゃ。

2005年05月19日

『月光の囁き』1999

■世間では『黄泉がえり』の監督、ということになっているらしい、ハスミスクール(by浅田氏)の1人である塩田明彦監督+喜国雅彦のまじめでせつないフェチマンガ原作。
■この監督の作品を観たのは初めてだけど、過剰さが無くて良い。「異常な性癖」を持って生まれてしまった少年と、それと知らずに少年を好きになってしまった少女の「性の目覚め」をごくまじめに描いていた原作を裏切らない誠実さを感じる一品。
■主人公の恋人になる女の子が、未知のもの、受け入れがたいものと出会ってしまったとまどいと衝撃、苦悩、それに対する態度の変化の過程が丁寧でおもしろい。

■主人公の男の子の、熱の汗、異常な汗、雨でずぶぬれ、などの、ねっとりてかる顔を上から見下ろす数々のショットが気持ち悪くてよい。正面から見るとそこそこ可愛らしいと思える顔立ちの少年なのだが、下から見上げる顔が異常に卑屈でブサイクで、そりゃいじめたくもなる顔なのだ。あの顔を選べた時点でこの映画はアリだと思う。それとも人ってああいう角度から見るとみんなそうなのか?

■「異常性癖」的なものとは縁がないのでそのへんの描写がリアルかどうかは分からないけど、切ないリアルな「恋愛映画」だとおもう。この映画の「異常性癖」は当然、あらゆる衝突に読み替えられる訳ですし。
■初めはその出現にとまどい強く反発しあっていたものがやがて解け合い落ち着いていくラスト(ナウシカ、腐海の菌類参照のコト)。彼らはやっと同じ視線に並ぶことができた。落ち着いて「変態」道を進んで下さい、と応援したくもなるさわやかさだ。

2005年05月18日

『狩人の夜』1955

■おとぎ話に影響されて見た夢の、記憶に残る断片をつなぎ合わせていったらできあがったようなそんな映画。基本のストーリーはごく分かりやすいもの、それこそおとぎ話のように、のはずなのに、次々と現れてくる艶やかで現実離れしたシーンの連続に惑わされて頭がぼんやりしてくる。
■川底で髪をたなびかせる女性、地下室へ降りていく兄妹、ボートで川を下る手前に現れる動物、亀やウサギたち。ごくわざとらしい星空を背景に下っていく川と前景の岸の、スタジオ撮影だからこそ可能なのだろうか、過剰なまでのつややかさ。おとぎ話の影に潜むエロティックがつややかさを通してなまめかしさとして立ち上ってくるような、輝きと強いコントラスト。

■サスペンスのようなおとぎ話のようなホームドラマのような子供向け宗教話のような不思議な映画。始まりがきらきらの星の中に浮かぶ子ども達の顔と聖書を読むおばちゃんで、次のシーンが殺人死体!と思ったらすぐに犯人が車を運転しながら「もう殺すのには疲れました」と言っている始末。しょっぱなからヘンテコ。

■サイコ役ロバート・ミッチャムの叫び声、というよりは雄叫びが異常。あれすごいぞ。

■俳優が撮った、たった一本のヘンテコ映画。それがなぜこうまでも語り継がれるのか、それは分からないけど、ああ、あのシーンだけでももう一度観たいなあと強く思わされる。あの川を。

2005年04月30日

『キル・ビル1&2』2003

■特に感想なし。嫌いでもなし、好きでもなし。あまり引用されているジャンルにも詳しくないし。やじきたを観たあとではキワモノ娯楽として扱うのも今一つ。
■敢えて言うなら、こんな変なものをロードショー映画として流通させられる「タランティーノ」はすごい。

2005年02月19日

『河内山宗俊』1936

■たった3本しか残っていない山中貞雄監督作の1本。これまた傑作。
■シビアな話のようでいて、会話の軽妙さや随所にちりばめられるおかしさは『丹下左膳余話』に連なるもの。とにかく面白い。
■河内山の「買っちゃえ買っちゃえ」は左膳の「やだいやだい」に通じてます。リズムがある。

■降りしきる雪が、あきらかに紙をちぎったものだと分かるのに、なんであんなに美しいのか。
■月夜が明らかにセットの照明なのに、何であんなに柔らかいのか。
■狭い堀を立ち回りながら走っていく男2人のかっこよさったらない。

■そして何より、戦後の小津映画のイメージばかりで観てしまいがちな原節子(当時15歳!)の清楚な色気は何なんだ。監督は男たちが命を掛けても良いと思える女優を探しまくって原節子を見つけたらしいが、こんな娘さんにそりゃもう夢中にならない方が無理でしょうよ。そっと佇む腰つき、悲しみにうつむく横顔。こんなに美しい原さんを私は初めて見ました。いつまでも見ていたいと思うほどに美しく撮られているうつむき顔。ため息がでます。

■これで、山中さんの現存3本を観てしまった。ああ、もっと観たいよう。いや、せめて、この3本を何度も観られることだけでも良しとすべきなのか。

2005年01月25日

『子猫をお願い』2001

■おばさま達を虜にしている韓流ブームや韓国四天王などといった流れとはまったく違う韓国映画、子猫をお願い
■高校時代からの友達仲間である20歳の女の子5人を等身大に描く、とかいうと、どこかバタ臭い嫌な感じが漂いますが、この映画は描き方は丁寧でいながらあっさりドライ。ところどころPVのような撮り方のシーンもあるけど、観ていて気恥ずかしい感じはない。なんとなくイギリス映画を思い出した。ケン・ローチ監督作とか(あれほど救われない感じじゃないけど)、『トレインスポッティング』とか(あんなふうにむちゃくちゃじゃないけど)。アジア的なバタ臭さがないのです。
■商業高校(卒業の数ヶ月後で20歳だから4年制なんだろう)を卒業した彼女たちは、その後の進路も現在置かれている状況もばらばら。当然のごとく考え方や価値観にすれ違いも出てくる。そのきしきしする感じや、それでも友だちでいつづける感覚などなど、誰もが感じたことのあるだろう感覚が、ささやかな事件や会話の中で繰り返し表現される。
■5人それぞれが、何かしらの不幸や葛藤を抱えながらも、その不幸の大きさで描き方の比重を変えるのではなく、彼女たちそれぞれが自分の置かれた状況をどう受け止めていくのかが丁寧に描かれている。
■なんというか、女の子ばかりの映画がこんなにも嫌みなく静かに「青春映画」しているのがすごい。
■ラストもさぱーっとドライな終わり方でよい。

■「美貌の野心家」とホームページで書かれているヘジュは顔も表情の作り方も、ともさかりえにそっくりで、美貌かどうかはびみょう。なんといってもテヒ役のペ・ドゥナがかわいいっす。映画の中では素朴なかわいさだったんだけど、DVDのおまけ映像のインタビューではもろ美人さんだ。

■映画は文化を見るための窓ではない。けれども、日本の韓流特集では絶対に見られない、ソウルの繁華街でもなく特徴ある田舎でもない、都市部近郊の(舞台は港町の仁川)、受験戦争に追われているのでもない人々の、韓国を見られるのもおもしろいです。

■題名の通り、子猫が出てきます。こいつがまたかわいい。ネコ手署名にノックアウトっす。ネコ手署名については本編観るべし。犬好きは犬手署名という応用も可。

2004年12月13日

『革命前夜』1964

■「『革命前夜』には、確かに映画をロッセリーニ的に(あるいはゴダール的に)撮ることのモラルがなまなましく息づいている」と金井美恵子氏は書くのだが、当然のように私はロッセリーニ作品を観たことがなく、ゴダールですらほんの数本観たことがあるだけなのだ。ゆえにおそらく私は『革命前夜』を「観た」とは言えない。目に映すだけでは、そこにあるモノを観る(見る)ことはできない。
■ゆえに以下は表層の感想。どの映画についてもそうではあるが。

■ベルトルッチの長編処女作である今作は、観る者に知識を強要する、作品の意味を考え出したら小難しい理屈がとめどなく溢れてきそうな雰囲気だが、そういったことは一切分からないので、雰囲気だけで観た。まあ、本当に雰囲気だけだったら、コジャレインテリどもが好きなんだろうな、けっ(含ひがみ)、で終わってしまうのだが。
■上記に引用した金井さんのコラムを読んでいたせいか、撮られた町の景色に目がいく。パルマの町は果たしてそれほどまでに美しいのだろうか、と疑問を持たざるを得ないほどに、雨のパルマの町は美しく、黒々とぬめるように光る石畳の歩道が目に焼き付く。
■撮られているものすべてにみずみずしさが溢れているようだ。主人公、叔母、川、友人、町、裏家、公園、その他もろもろ。

■そして、今ではこの作品からは遠く離れてしまったベルトルッチに対し、主人公が映画内で観に行く映画『女は女である』の監督ゴダールが、いまだにゴダール的作品を撮り続けている(らしい、としか私は言えないが)ことに驚嘆する。そこにいつづける、しかも型にはまることとは真逆の状態で。その強靱さはいったいなんなのだ。ゴダールに強靱という言葉も似合わないが。
■要するに、ベルトルッチもそうであったらよかったのに、という思いが今作を観て出てきた感想だ。決して嫌いではない『シェルタリングスカイ』のモロッコが、もしも『革命前夜』のパルマのように撮られていたら?想像しただけで鼻血ブーだ。

2004年12月05日

『恋する幼虫』2003

■柴さんに薦められなかったら絶対に観てなかったであろう映画。だって、グロに弱いんです。弱いという自覚があるので避け続けていたグロ道、久しぶりに観て自分のグロ抵抗指数がやはりとにかく低いことを実感。他のグロものを観ていないから比較のしようがないのだが、相対ではなく、絶対評価として、充分にグロい。
■きっちりグロいと聞いていたにも関わらず、冒頭の「目玉」から実際に観ることの衝撃に打ちのめされる。百聞は一見に如かず。ああ、わたしはほっぺたからモヤシを食らうシーンが脳裏に焼き付いてしまいました。あれが一番うえええええ、でした。
■喉元に嚥下したばかりの夕飯を感じつつも、タオルを全力で握りしめながらも、最後まで観る。全編を通してはグロではなく、やはり純愛ものなのだ。

■もろ自主制作映画な画面づくりの良し悪しは別として、同窓会のシーンはどうにかしてくれというほどにセッティングがちゃちなうえにテンポが悪い。観ていて気恥ずかしいぞ。
■グロでSF的で精神障害モノで純愛、な脚本はとてもとても小劇場的で、というかもろ松尾スズキ味なので、キャストが大人計画まみれな事もあり、10年くらい前の松尾スズキが撮った映画なのではないかと錯覚しそうになる。
■そば屋で、「うわあ感激だなあ。握手して下さい」握手シャキーンガブッ「きゃあああ」、な流れなんて、10年ほど昔、私が小劇場系に足繁く通っていた頃によく見たパターンじゃないか。目指している平坦な感じまで手に取るように分かるので、微妙な至らなさがこそばゆい。嫌いじゃないけど。

■単なる松尾フリークが撮った同人誌的映画にこれがなることを免れたのは、おそらくは監督のグロさを表現する事への情熱の高さと、自分自身のフェチズムをストレートに放出しているためなのではないだろうか。井口昇監督のことは何も知らないので勝手な推測だけど。予算のほとんどが特殊メイクにつぎ込まれているのは間違いないでしょう。
■でも、私にこの映画を最後まで観させたのは、何よりも主人公の新井亜樹だ。彼女の、パーツのすべてが崩れ落ちそうで落ちないぎりぎりのところで止まっている顔面から繰り出される笑顔は、あまりにも魅力的で、最初のブサイクきわまりない引きつりまくった笑顔から意地の悪い笑顔、相手を思いやる笑顔、と進んでいく中で次にどんな笑顔を彼女が見せるのか、それに夢中になってしまった。そしてもちろん、ラストで見せる彼女の至福の笑顔は最強だ。彼女の、「グロであり純愛」の体現っぷりがこの映画を支えている。
■新井亜樹は前作にも主演しているらしいから、井口監督のmuseなのかもしれない。ヒチコックがやっと見つけたと思ったらモナコ野郎にかっさらわれてしまったグレース・ケリーといった意味での。あるいは(今もそうなのかは知らないけど)マーク・ジェイコブが服をデザインするときに常にbjorkを想定しているといった意味でのmuse。だからこそ、彼女の笑顔をあれほど美しく撮れるんじゃないだろうか。そういう存在の女優を持っている監督はおそらく稀でめぐまれている。そしてそれは井口監督の才能の1つとして数えられるべきなのだろう。
■しかし、あの笑顔、何かを思い起こさせる。はしゃぐ犬の顔。そして吉岡秀隆。どちらも嫌いじゃない。

■結論として、面白かった。
■純愛ゆえに(普通に)触れられないというテーマが全体を流れている訳だが、ラストでのその命題のすっとばし加減があまりにも無責任で、その無責任さ加減がよい。
■是非、この監督には充分な予算で次回作を撮っていただきたいものです。全体のクオリティをもっと上げたうえで、もっと趣味性をきわめていったら、暴走を極めたら、もっと面白そうだ。とはいえ、前作を観るかどうかすらあやしい私が次回作を映画館に観に行くことは決してないはずだ。映画館じゃ視界いっぱいに巨大グロじゃないか。

2004年11月20日

『CURE』1997

■アメリカ的なホラーのようにババーンと恐怖の対象そのものが出てきてしまったり、ましてや直接襲いかかってくるというのは、恐怖よりも「ビックリ」や「笑い」を生んでしまうものだが、日常生活でのふとした違和感や異常というのは、その正体がつかめないだけに、あるいは日常に入り込んでくるがために怖ろしい。
■『CURE』で描かれる「異常」は異界の存在ではなく、一人の「伝道師」が引き出す無数の人々(すべての人々)の中に存在する殺意だ。いや、殺意というよりは自分が解放されるための「欲望」だろう。だからこそ犯人たちはためらいなく対象者を殺す。黒沢清の特許とも言えそうな「間の無さ」はだから、交番で警察官がゴミを置いて銃を構えて無言のままに後頭部を撃つシーンで効果的に行われている。対象者を憎いからではなく、自分が解放されたいが為に行われる殺人に、相手の恐怖を確認し復讐心を満足させる必要はない。ただ、排除さえ出来ればいいのだ。
■通常は殺意にまでは結びつかない欲望。けれど、誰もが持っている。日常として。
■解放は果たして治療なのだろうか。
■他の殺人者たちが、殺人を犯した後にその代償に気付き我に返るのとは逆に、高部はラストで実に晴れ晴れとした顔で夕飯を平らげる。しかし、いつもと変わらず、他人と変わらず飯をたいらげたソレは解放された怪物なのだ。怖い。
■ちらりと出てくる大杉漣のやりすぎな外見に爆笑。

■これも黒沢清専売特許といえそうな、壁に溶け込むかのように人がぴたりと壁にはりつきおぼろげな暗い影と化す映像が今回も出てくる。この場合は精神科医が見るビジョンの中の高部であり解放された怪物であるが、『ニンゲン合格』では主人公の父や父の友人であり、存在の不確定さを表しているように思える。そしてとうとう人間が本当に影に、というかシミになってしまう『回路』へと続くこの「影」たちは一体黒沢氏にとってどういう意味合いを持つものなのだろう。単に壁のシミって怖いよね、ということだろうか?確かに装置としての「影」と「半透明のビニール」はとにかく怖い。
■黒沢作品の魅力はとにかくためらいの無さ、だ。前述の警察官の殺害、唐突に窓から飛び出してくる人間、屋根から落ちる人間、すべて、事前に何の説明も無いままに突然行われる。そのキレがとにかく好きだ。

■公衆トイレで女医がべろりん、と人の顔の皮を剥くシーンでは思わず、うえええ、と声を出す。飯を食いながら観るものではない。

2004年11月19日

『神田川淫乱戦争』1983

■黒沢清監督の35mmデビュー作らしい今作は、ジャンルとしては題名の示すとおりの「ピンク映画」なのだが、さすがの黒沢、乾ききっていて、ちっともピンクじゃありません。内容は、気ままにSEXを楽しむ(含同性愛行為)二人の女性が神田川を挟んだ向かいのマンションに住む母と息子の近親相姦をのぞき見し、それはいかんと少年を助けに(自分とSEXさせてまっとうな性の道に戻す)行くという話で、映像としてはSEX、近親相姦、自慰等があって、きちんと「ピンク映画」のノルマを果たしているのだけれど、当時これをどきどきしながら観に行った人は怒ったと思うね。ピンクとしては失格作、というより別ジャンルものになっているでしょう。
■ゴダールを意識して作られたらしい、なるほど。
■スキップしながらフルートを吹く。顔中にそのパーツを示す単語を書く。母親が板に乗せられ神田川を流れていく。落ちる。
■主人公の女性のSEX観がやたらに冷めているのだが、分からなくも無い感じ。黒沢監督おそるべし。
■全体を通して非常にあっけらかんとした空気が流れていてすがすがしいくらいだ。女性二人の白いパンツ(パンティと書くべき?)がまぶしいっす。
■「ボヴァリー夫人は私だ」は単なる蓮實重彦氏へのオマージュなのか、それともこの映画自体に関わる何らかの意図なのか、私には分からない。
■まあ、やっぱりとにかく変な映画だ。女の私が堂々と借りられるピンク。

■この作品で助監督をしている周防正行氏も変態家族 兄貴の嫁さんというピンクで監督デビューしているのだけれど、小津安二郎パロなこの作品で欲情する人がいるとは思えない確信犯。あ、ここにも大杉漣。

2004年11月17日

『キートンの探偵学入門』1924

■すごいんです。めくるめく仕掛けとアイデアの嵐。映画という装置だからこそ出来そうなこと、やったら面白そうなことをすべてやるという欲望に取り憑かれたかのような。
■バイクのハンドル部一人乗りで、つながる橋、倒れる橋を走っていくといった大がかりな装置や、何度も巻き戻して確認してしまった飛び込み瞬間着替え、バナナの皮で滑ることが分かり切っているのに、そのあまりの滑りっぷりの豪快さにやはり何度も巻き戻してみてしまうようなキートンだからこその技の数々。
■本人から幽霊のように分離する夢の中のキートンが映画のスクリーンの中に入り、シーンの切り替えについていけず、海に飛び込もうとして雪に突っ込んだり、イスに座ろうとしてライオンに座ってしまったりする部分はやや長めにつくられていて、その長さが映画(映像)でしかできない事を見つけた嬉しさを思わせるようだし、その直前に映写室からの景色として客席も伴奏者たちも映っていて当時の観客たちの様子を見させられるので、『探偵学入門』の観客たちがシーンの切り替えの度に大笑いしたんだろうということにまで思いが及ぶ。
■その数々の仕掛けにも負けないだけのあのラストシーンはまた、ものすごく素敵だ。仲直りした恋人にどう接すればいいか分からず、ちょうどハッピーエンドを迎える上映作を映写室の窓から見ながらその映画の通りに振る舞うのだが、映写室の窓枠にきちんとおさめられた二人とスクリーンの切り返しの連続は、その窓枠も「スクリーン」であるかのように思わせる。その対比もまた、なんだか「映画であること」の喜びに満ちているようだ。やはり当時の観客たちは『探偵学入門』を見終わった後につい映写室を見上げただろうなどということも考えてしまう。作り手の喜びと観る側の喜びの両方がこの映画に溢れているように思える。
■映画内映画はキスシーンの後に二人の子供に囲まれ幸せそうに笑う主人公たちという映像で大団円となり、それを見たキートンの途方に暮れたような、「そりゃないよ」と言い出しそうなオチがとても好きだ。

2004年11月15日

『亀虫』2003

■「エビを食う」
■「剥いてみるのもよかろう」
■馬鹿馬鹿しい=楽しい。と、監督本人が解説するように、この映画は馬鹿馬鹿しい。そして面白すぎる。
■短編が5編で全部でも50分程度の、このシュールな世界は一度ツボにはまった人には耐えられない破壊力を持つ。要所要所でことごとく爆笑させられた。深夜番組にありそうな感じで、めっけもん的なおもしろさでありながら、テレビに登場しないのは中原昌也氏の言うとおり、冨永監督がやはり「呪われている」からなのだろうか。「呪われた監督」というのはむろん、「優れた映画を作りながらも正当に評価されない監督」のことだし、中原氏や青山氏にとって「呪われた監督」といえばかつての黒沢清氏なのではないかとおもうので、「呪われている」はもちろん最大級の賛辞だ。
■面白い感じを書きようがない。リンク先の監督自身の解説で充分。
■しかし、あの息もつかせぬモノローグ、それを配置する間の取り方、すばらしい。かー君の情けなさもすごいが亀虫の亀虫っぷりもすごい。
■それでいて、絵ヅラがなんだか切なくなるような素敵さ。「亀虫」のくせに「映画」なのです。「妹」編は、長い無言のあとのモノローグが破壊的だけど、延々とカレーを作る作業をひたすら撮り続けている感じも好きだ。
■ちなみにジャケットイラストは魚喃キリコ。うっすら知っている感じからすると、彼女の漫画が好きな人はきっと楽しめると思われます。

■やや芝居が入り気味なので、宮沢章夫氏が「TOKYOBODY」でやりたかったのはこんな感じなのではないだろうかと連想。しかし、舞台ではこれは無理だ。舞台には限界がある。むろん、その限界をどう使うかが宮沢さんの面白いところだけど。改めて「be found dead」を観ていないことを後悔。宮沢さんの映像世界はどんなものなのだろう。
amazonを見たら「あわせて買いたい」のカップリングが『ヴァンダの部屋』だ。腰が抜ける。青山氏絶賛つながりということなのだろうが、内容から考えるとむちゃくちゃでんがな!と叫びたい。ようするに、そういう人(シネフィル的な人)しか買ってないのか、『亀虫』。もったいない。

11月16日追記
■宮沢さんも『亀虫』を絶賛していたようだ。で、宮沢さんの「be found dead」に冨永氏も参加しているらしい。
■宮沢さんも『ヴァンダの部屋』公開時にペドロ・コスタ監督と対談してるし、要するにシネフィルというよりは宮沢-青山つながりの人しかコレを観ていないということか。宮沢も青山も知らない!という人にも観て欲しいっす。

2004年11月05日

『GANGSTER No.1』

■悲しい話を観た。ポール・ベタニー目当てにこの映画を観たのだけれど、さすがにポール・ベタニー。かっこいいよ、あんた。『チキチキバンバン』でも思ったけど、上目遣いと銃が本当によく似合うなあ。
■しかし、悲しい映画だった。「超えなければならない男がいる」がキャッチフレーズだった気がするけれど、彼はただ憧れを追いかけていただけで、その対象を物質的に超えはしたけれど、結局あこがれの対象にはなれず、対象を失い、自分自身のビジョンが持てないまま自滅する。ゆがんだ愛情の暴走。最後まで自分が誰かを自分自身に問い続ける。スタイルに固執してそれ以外のなにも模索できない悲惨さがかなしいねえ。若いギャングスターを演じるポール・ベタニーがやたらかっこいいだけに余計かなしさが増すね。これ、正しくは「超えてはならない男がいる」だったのかもね。
■さんざん言われてるけど、その晩年を演じるのが『時計じかけのオレンジ』のあの人だからその辺の演出はニクイ。それにしてもギャングスター一人だけ老けるの早いな。やっぱり悲惨だからか。

2004年10月14日

『キートンのカメラマン』1928

■キートンの映画は優しい。どう考えても社会的にダメダメ君のキートン(が演じる主人公)をヒロインは受け入れる。もちろんラストではダメダメ君が何かしらの成功を収めることになるのだけれど、それだって様々なハプニングが重なっての偶発的成功に近い。けれど、ヒロインは成功する前の、真にだめだめな主人公を既に受け入れている。とことん間の悪い、うだつのあがらない、でもまっすぐで優しく打たれ強い人柄を見抜くだけの洞察力をヒロインたちは与えられている。最後には必ず彼女たちが主人公と幸せになることが分かっているから、ダメダメぶりを強調するアクションを安心して笑い転げて観ることが出来るのかも。ラストが救われないものだとしたらキートンのあまりに超人的なアクションは痛々しいものになってしまうかもしれない。
■とか、辛気くさいことを考えてる場合じゃない。観ている間はただただ面白くてそんなこと考えていられない。本作もキートンの超人的アクションがさりげなく繰り出されまくる。でかいカメラを片手に走る消防車に飛び乗るところなんて、まるで普通に車に乗るかのようにさらりと撮られている。最後のボート激突だって、キートンの必死の泳ぎに比べたらなんてことないかのように一瞬だ。キートンの受け身をとらない(かのようにみえる)アクションは気をつけないと、良い子が真似しそうなほど簡単そうにあっさりと流れていく。あくまでアクションは笑いのための動きでしかない。
■でもこの映画がすごいのはアクション以外も素晴らしすぎるところ。町を全力疾走で駆け抜けるキートンはなんだか感動的だし、球場でする一人野球マイムは美しいと言いたくなるし、チャイナマフィアの抗争はむちゃくちゃに派手だし、何よりも猿!猿の使い方がうますぎる!猿の役回りおいしすぎる!単純にかわいい!あああ、他にもお巡りさんとのやりとりや更衣室のむちゃくちゃぶり、書ききれない。これは『蒸気船』に匹敵する大好きな作品になるかも。

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