2012年11月28日

『カリフォルニア・ドールズ』

ロバート・ア(オ)ルドリッチ 1981年
ニュープリント上映@シアターN
−−−−−−−−−−
We want Dolls!!って一緒に叫びたかった。。。
試合では歓声を受けても勝っても、終われば、次の試合も決まらないままジャンクフードを詰め込んで安モーテルで休むだけ。そんな先の見えない、重たい曇り空のようなどさまわりも、ドールズとピーター・フォークの掛け合いはどこかユーモラスで、味わいのある旅が観ている側には面白い。ピーター・フォークの格言好きの理由の一幕とか、車の中のどうでもいい会話とか。ゲイシャ代表も出てくるしね。
それでもやっぱりじわじわと先の見えなさは重たくなり、先への渇望が痛くなってくる。特にかすかな希望が見えてからは3人の衝突も厳しくなってくる。
それでもっての大一番!
キラキラ!
ピーターは本当に「最高のマネージャー」だったよ!と喝采を送りたくなる、全てをなげうつ背水のゴージャス!もう後には何もないからっぽゆえに、より際立つ美しさと祝祭感。
そうかそうか、みんなここで涙腺が崩壊するのか。
ドールズ登場の段階でひゃっほーなのに、そこからカリフォルニア州旗が下りるまで、祝祭はどんどん高揚し続ける。もうなんなのこれ。泣き笑い、いやむしろ呆然とした。すごい。

シアターNさんにこれがおそらく最後の訪問。「7年間ありがとうございました」の張り紙が切ない。まあ、観にくい劇場なんですけどね。それをしのぐ個性を確立したのがすごいです。Nさんのスピリットはどこが受け継いでくれるのかなー。

2011年01月26日

『キック☆アス』

期待しすぎたせいなのか、いまいち内容を理解していなかったせいなのか、面白くはあったのだけど…という感想です、とお断りを先に入れます。
ネタバレもしてます。ご注意。


現実世界のさえない男子がヒーローにあこがれちゃうという面白さを土台にしていながら、ヒットガール親子という「ファンタジー」との出会いから、自らそちらの世界に踏み出す覚悟で「敵」を倒し、一件落着して元の世界に戻ってくるファンタジー、という流れ。

なにか乗れなかったのは、すべてはキック・アスくんが何も失わずに(というか得たものばかりで)元の世界に復帰しているということが原因なのだよね。一度は自らあちら側の世界に踏み出してしまった人間をこうもあっさりと元に戻していいのか、という違和感から、これはもしかして無責任においしいところどりの映画ではないのかという不信感へ。

あのラストのせいで、さえない時代のキック・アスくんや友人たちもいいし、レッド・ミストとの車のシーンもいいし、ヒーローモノへのオマージュもほほえましいし、もちろんヒットガール&ビッグダディーのコンビは最高なのに、その面白さが、「現実世界だからこその面白み」と「ファンタジー的おもしろみ」をずるく使っているだけに思えてきちゃうという悲しさ。

なんでこの2本なのかは自分でもよく分からないけど、『ナポレオン・ダイナマイト』や『ショーン・オブ・ザ・デッド』とは何かが根本的に違うと思ったのでした。

とはいえ、ヒット・ガールとケイジのコンビは面白すぎ。もっと見たかったなあ。
あと、レッド・ミストの頬袋は気になりすぎる。

2011年01月10日

『ゴダール・ソシアリズム』

新年1本目は何にも考えないで観られる映画がいいなあと、銀座シネパトスに森繁を観にいくはずが、銀座ついでに去年からの年越し宿題であるゴダールも行くかと思いついてしまったがために、結局本年1本目はゴダール。
相変わらず話の内容はまるでわからないアホ面で鑑賞。

動物萌え映画でもある今作(って言っていいのか)、語り合う猫もアルパカもかわいいが、なんといってもアルパカに寄り添って微笑むように目を閉じるロバがかわいい。
アルパカとロバがいるだけで、フランスのガソリンスタンドは南米に見えてしまう。私の中ではそういう記号になっているらしいという発見はありました。

豪華客船から見る波の黒さとうねりがかっこいいなあと思い、客船内のいろいろと豪華な中身にぽかーんとし、動物に萌え、上半身ビキニの女性のしなやかな体つきに見とれているうちに映画は終わったのでした。

2010年09月21日

『コララインとボタンの魔女』

早稲田松竹にて『アリス〜』のカップリング。

ヘンリー・セリックの狂気は衰えてないなあ、と。
コララインをよろこばせるために「理想の世界」が繰り広げる「ステキ」なあれやこれやが常軌を逸していて「ステキ」なようですげーこわい。一旦疑問を感じたら瞬く間に恐ろしさをむき出しにするのだけど、夢中な間は尋常じゃないすばらしさに見えてしまうという、その境目をこれでもかと展開していて歯止めなし。

ストップモーションアニメの完成度があまりにも高すぎて、もはやCGアニメにすら見えてしまうという本末転倒。いや、それはメガネかけても残念な視力の自分のせいか?
『屋根裏のポムネンカ』のように人形が命を吹き込まれているような、えもいわれぬワクワク感はなかったかも。ヘンリー・セリックでも、『ライフ・アクアティック』のように実写の中に置かれるとCGにはない質感で奇妙な生き物たちが動くのが楽しかったりしたのだが。
オープニングの人形が作られるシーンが不穏でリアルで一番ワクワクした。

いやしかし、もう一度DVDとかでかぶりつきで観たらだいぶ印象違うかも。
細かなギミックは一度観ただけでは追いかけきれない。

2010年09月08日

『借りぐらしのアリエッティ』

どうもなにやら納得できないのだが、自分が何に引っかかっているのかいまいちよく分からない。見た目が駿すぎるキャラなのに駿じゃないせいなのか、いやそれを差し引いても何かもやもやする。もしかすると、原作を読んでいないにも関わらず、現代の日本を舞台にするなら高野文子さんの翻案『東京コロボックル』が最高峰だと思っているせいなのか。
とか思っていましたが、ハナログさんのアリエッティに関する一連の記事「借りぐらしのアリエッティ、または暗躍する父」「『借りぐらしのアリエッティ』、または給餌される少女」「借りぐらしのアリエッティ、または水玉と繊維」を読んで私なりに腑に落ちました。

特に「『誰がアリエッティへのエサやり権を占有するか』をめぐる男たちのゲーム」という部分が核心のような。
駿作品で添え物やいけにえにされ続けた男たちの復讐なのか、今までの主人公となった少女たちとは違い、アリエッティは決して自立せず、自分ひとりの孤独と戦う強さも獲得することはないままなのですね。冒険らしい一幕はあるし、アリエッティがたくましさをみせるシーンもあるものの、結局は常に誰かと共にいる。
主人公が父から父の選んだ男の手に渡される間につかの間の叶わぬ恋をする話、がそれ以上のものになっていない感。
その他登場する女性陣も、うっとうしさばかりが目立ったり(母)、異常な執着がほほえましさや滑稽さを超えて醜悪になってしまったり(ハル)、父親の夢をそのまま自分にとりこんでしまっていたり(貞子)で、何か魅力にとぼしい。

あとやっぱり巨大と極小の世界の並列、その視点の切り替えで生じそうな感覚のくらくら感とかなかったのが、勝手な期待ながら残念。いつでも洋服がのっぺりと塗られているのは興ざめしてしまうのでした。それともそこまでやると収拾つかなくなるので敢えて切り捨ててののっぺりなのかな。水の扱いはおもしろかったのに(とハナログさんでも書かれていましたが)。

作画は概ね良かったので、残ったもやもやが気になってしまったのでした。

にしても、ハナログさんの一連のアリエッティ記事は本当に痛快+勉強になります。

2010年06月17日

『コロンブス、永遠の海』

オリヴェイラの作品は、もはや同時代人として新作を観ることができるというだけで幸せすぎるのに、その作品自体がなんとも瑞々しくて奇妙で素晴らしいのだから、もう本当に幸せとか通り越して、一体あの人は「何」なんだろうと呆れにも似た感嘆を何度も繰り返すしかないわけです。

撮影当時98歳にして、監督のみならず主人公の70歳代(推定)時代を演じてしまう(しかも夫婦で)というのは一体何なんでしょう。

若き主人公がアメリカに渡る船の中の暗さや港の霧が素敵だったが、何よりも老年時代の博物館を出たシーン。
開いたドアから見えるのは、停めておいた車の助手席を開けて新婚旅行の時と変わらないしぐさで夫人をエスコートし、運転席に回って手にもったジャケットを先に放り込んで車に乗り込み、走り去る2人。

このシーンにしびれた。

まったくもって何者なのだろうこの人は。
新作ももう出来てるんだよねえ。早く見たい。

ポルトガルカラーを身にまとった天使は、オリヴェイラには普通に見えているものなんじゃないかという疑いすら持つ。それでも不思議じゃないな。

2010年04月15日

『かいじゅうたちのいるところ』

映画全体を見るとちょっと弱いなあと思うのですが、パーツを見るととても魅力的なものがちりばめられている、そんな映画だった気がします。(観てから3ヶ月経っています、ちなみに…)

かいじゅうたちの質感や表情もすばらしいし(ちゃんと着ぐるみでやってくれるのが嬉しい)、みんなの家もかっこいい。みんなが団子になってそのまま「おやすみー」と言い出したときには、素敵過ぎて爆笑してしまった。

でもなんといっても素晴らしいのはオープニングからイグルー破壊に至るまでの主人公の「かいじゅう」ぶりでしょう。自制が効かないで乱暴になってしまうけど、想像力豊かなナイーブな男の子、というこの物語の前提に必要な説明がすべてオープニングからの数分で、きらきら生き生きと描かれている。

自分の感情をうまく言い表せないもどかしさから泣いてしまった子供の頃を思い出した人なんて山ほどいるのではなかろうか。
そして、現役のこどもたちはこれを観て、程度の差こそあれ自分の中にある「かいじゅう」がスクリーンで大写しになって、ちょっとした居心地の悪さなんかも感じたんじゃないかなあ。それはそれで素敵なことだと思うんだけど。どうだろう。

2008年12月07日

『この首一万石』

真っ青な空に毛槍2本が舞う最初の絵面があまりにもきれいに決まっていて、ああもう満足、とため息を吐いた。旧作を観たのが久しぶりだったせいもあるのかもしれないけど、こういう瞬間が無ければ映画を見続けるのは苦痛になっていく。もしこれが駄作だとしても、この絵を観られた満足で全部オッケーだ。まあ、駄作な訳無いんですが。

駄作じゃないけど珍品なんだろうか、これは。修羅場のシーンは陰惨な状況であるはずなのに、次から次へと繰り出される荒唐無稽な人の死にっぷりに、人死にのたびに場内に笑い声。
さらにはラストシーンで大名行列の毛槍を映してファーストシーンときれいに連携させて閉じると思いきや、毛槍を通り越してバックの富士山アップどどーんで「完」にまたも場内に溢れるツッコミ笑い。劇中富士山に一切触れてないっつーの。
もてもて橋蔵が惚れ込む江利チエミのおきゃんな町娘はどうにもかわいく見えないのが困ったが、2役の芸者は妙にきれいだったので、適材適所という言葉が思い浮かぶ。
どうにも変な味わいで、悲劇なんだか喜劇なんだか。軽いんだか重いんだか。おもしろかった。

伊藤大輔1963年

2008年06月23日

YMG

ところで、『コロッサル・ユース』という題名はYoung Marble Giantsというバンドの唯一のフルアルバム『Colossal Youth』から取ったらしい。YMGは一部では「カルト的な人気」があるらしいですが、私はこの映画を観るまで全然知らなかったっす。
周囲にすごく好きな人がいそうだなー。
何回か聴いているうちにくせになってしまいそうな、すごくセンシティブな音。
http://www.myspace.com/youngmarblegiants

監督のペドロ・コスタはポルトガルのパンクス出。興味のない音楽がレゲエだってことは知っているが、こういう音楽も好きなのか。
ちなみに映画ではYoung Marble Giantsは、一切使われていません。
というか曲は、ヴェントーラが掛けるレコードから流れる故郷の歌1曲。あれをヴェントーラが1人歌うシーンはずるすぎる…

映画の『Colossal Youth』は英語用につけた題名で、原題は『Juventude em Marcha 』(Youth in March、で合ってる?)。果たしてこの映画の何が「Youth」なのか、ひどく気になる。原題は『溶岩の家』に出てきたフレーズらしいけれど未見。どちらにしても、なんだかヒリヒリするような題名。

2008年06月22日

『コロッサル・ユース』

出されることのない(あるいはかつて書かれた?)手紙の言葉、子供達への訪問、幾度も繰り返す行為が円を描く。けれどそれは同じ地点に戻ることはないらせん。当然のことだろう、反復は決して時間の停止ではないのだから。妻の失踪、古きフォンタイーニャスの消失、失われていた人間との再会といった大きな変化までもがそのらせんの中に吸い込まれていく。いくつかの、繰り返される事柄の中に、すべての変化は吸い込まれていく。

だって、それが生きているということの、最も単純な事実なんだと、わざわざ確認したくなるのは、そのらせんの力があまりに強く、観ている私までも引きずり込まれそうになるからだ。引きずり込まれる不安感にどうにか言葉を与えたいだけなんだろうな。

共感とか同感とか、そんなあまっちょろい感情が生まれるはずもない。ただ『コロッサル・ユース』の中のらせんに巻き込まれ、身動きもできないままにそこに繰り広げられている空間を生きる、あるいはそこに存在する生に絡め取られる。幾度も繰り返される事象の中に練りこまれていくような感覚は、金井美恵子さんの小説を読んでいるときのめまいのような感覚に少し似ているかも。

それにしても主人公を務めるヴェントゥーラの巨大さは何事。巨大にして静寂。時にはシミのようにもなる(シミとしてあつかわれもする)あの巨体。そして、画面の前面に大写しになる彼のしなやかに伸びる長い指とその先に真珠色に輝く美しい爪…あまりの美しさに嫉妬してしまうほどの指を持った巨人。その彷徨。


ところで、私はイメージフォーラムの1階で観ましたが、上映中たびたびピント合わせ(?)のような動きがありました。公開初期に地階で観た友人は、後半ずっとピントが合っていなかったようです。それほどにピントあわせが難しいフィルムなのでしょうか?


監督:ペドロ・コスタ
@イメージフォーラム

2008年05月07日

『狩人の夜』

以前にビデオで観ていたけれど、初スクリーン。
題名通り夜のシーンが多いので、きっとまるで違う感じだろうと思ってた。そうだった。

冒頭のあのシーン。星の輝く夜空が、なめらかな手触りを持つ何か、例えばビロード、いやもっと濡れたような黒で、ビデオで観たときには如何にもらしさに笑ってしまった子供達の顔が浮かび上がる夜空という絵面も、そのなめらかさに溶け合うように顔が輝く美しさに妙に心打たれてしまい、思った通り私は‘初めて’『狩人の夜』を観るんだとわくわくした。

そしてやっぱり川下りのシーン。夜の川を下る子供達の舟を奥に、手前の岸にいる動物たちが映し出されるという構図そのものはもともと好きだったけれど、その動物たちに当たる光の美しさといったら!カエルのぬるりとしたなまめかしさ、うさぎの小刻みに動く毛皮のふんわりとした誘惑…。フクロウもネズミも、映し出されるその瞬間瞬間にみとれてしまう。

何だろう、何がどうなっているのやら、映し出される全てのものに異常なほど的確な光(と影)が当てられているような気がするからか、その執念のようなもののせいなのか、とにかくドキドキする。

宝石箱でも、おもちゃ箱でも、「大事なもの箱」でもいいけど、誰かが大事に美しく作り上げて隠しておいた箱の中の世界をこっそり覗いているような、密やかな愉楽のような映画だ。

それにしても主人公の男の子の毅然とした顔といったらなんてきれいなんだろう。しかし、それ以上にロバート・ミッチャムのおむずかりのご様子が愛らしすぎる、って今回気がついた。


監督:チャールズ・ロートン
1855年

2007年08月21日

『グラストンベリー』

歴代グラストドキュメンタリー。
のはずだが、副題に「いかにイギリス人はモンティ・パイソンの影響下から逃れられないか」とかなんとかついているに違いない。
いかに彼の国の人々がモンティ・パイソンに脳を支配されているか、または逆に、彼の国がいかにモンティ・パイソンが生まれるにふさわしい国なのか。堪能。
敢えてパイソン的なパフォーマンスをしているわけでもない人々さえもパイソンスケッチの中の人に見えてしまうのは私自身の病気だとしても、十字架をひきずる相手に「ブライアンか?」と何のためらいもなく言う奴に、「あいつモンティ・パイソンの見すぎだよ」とすかさず返せる本人。歴代の映像がシャッフルされてるから何年のエピソードなのか分からないけど、このやり取りには爆笑。警官衣装でラインダンスとかもね。
あ、グラストが聖盃伝説の場所だってことはこの映画で知りました。
うーん、記憶の8割が「モンティ・パイソン的」で埋められている。

ともかくフジと何が違うのかを強烈に感じたのは覚えてる。
言わずもがなの「客」の違い。
一体どこまでが主催者側(あるいはトラヴェラーズ)の仕掛けで、どこからが客が勝手にやってるのかわからん。空撮しても敷地境界がどこにあるのか分からない以上にその境界はあやふや。それはきっと監督の意向なのだろうけど、そういった編集が可能なほどに、勝手にパフォーマンスを繰り広げる人たちが多いってことなんだろう。
トラヴェラーズ、いわゆるヒッピー的な人々が権力に負けながらも集団として生き延びられる国じゃないとこうはならないのかな。
楽しむぜ!に掛ける意気込みがただごとならぬ。
イギリス人のフェス上手ってこういうことなのね。

音楽的なことも一応書いておくなら、ジョー・ストラマーのステージ上でのキレっぷりがかっこよすぎて涙が出た。

グラストに実際行った人々よ、この映画と実際のグラスト、比べてみてどうですか?


@Q-AXシネマ
監督:ジュリアン・テンプル
2006年

2007年05月13日

『クロッシング・ザ・ブリッジ』

これを観たものは皆、今この時にこそイスタンブールへ行かねば!と思ってしまうのではないか?行きたいなあ、だって楽しそうじゃん、というごく野蛮な感想がまず第一弾、のイスタンブール音楽紀行。

映画の作りはいかにも淡々とした「記録」然としていて、映画中にそこでもっと音楽をぐわっと盛り上げるのか、と思う箇所でふいっと他の音楽に移行してしまうので、観ている方は少しずつ欲求不満を抱えることになるのだけれど、もちろんこの映画の場合はそれでいいのだろう。何しろこの町は「はかりしれない」のだし、音楽の多様性も、「この町では古今東西のすべての音楽に通じていないDJはすぐに飽きられちゃうよ」というラジオDJの言葉が包括してるように、その町そのままに、あまりにも多様で、すべてが力を持っているのだろうから。
伝統音楽を取り入れたジャム、エレクトロ、ごく西洋的なロック、ブラックミュージック、伝統音楽、古い民謡。
様々な規制がやっと緩んできたこの国では、今この瞬間こそが多様性の絶頂なのかも知れない。
包括的イスタンブール音楽祭なんてものがもし行われたとしたら、ありとあらゆる方向に知覚が振り回されてさぞかし面白いだろう。いや、もちろんイスタンブールに乗り込んでラジオをつけるのが一番良いのかも知れない。政治性の強い歌詞が多いのに言葉分かんないのが難ですが。フジロックもかなり音楽の多様性が進んでいるけど、この町は町単体でそれ以上の多様性を示してしまうんだろうな。

トルコ語という言語のせいもあるのか、英語よりも高速でリズミカルに聞こえるCEZAのラップも相当に格好良かったけれど、私の好みとしてはやはりエキゾジャムなBabaZulaだな。かっこいい。来日ライブ行っておけば良かった…

@渋谷シアターN
2005年
監督:ファティ・アキン
公式HPにミュージシャン情報も載ってます。

2007年04月28日

『今宵、フィッツジェラルド劇場で』

メリル・ストリープは苦手だし、カントリーには興味ない。それでもこの映画に最後まで惹きつけられたのは、そこで繰り広げられる人々の豊かな交わりや歌やショーの進行の巧みさだけのためではなく、むしろそういった「人間賛歌」といった言葉で一括りにしてしまえるかもしれない群像劇を進行させているのが、ハードボイルド気取りが間抜けさを助長させているだけの警備員と、過剰にセクシーなムードを漂わせる美人の天使という、枠組みからはずれた2者であるためだ。
2人はショーには何の影響もおよぼさないままに舞台の上も裏も自由に動き回りながら、出演者達それぞれが持つ「最後のショー」への密やかな感情の高まりといった流れをスカしていく。
そのスカしは、たとえ「終わり」においても何もかもがそこに収束することはないし、「終わり」がなにかを決定的に支配してしまうこともないのだということを示していて、人々の豊かさに加え、まとまらないということの豊かさをみせてくれる。
煩雑さの豊かさ、そう書いてしまうとひどく陳腐だけれど、それをハードボイルド気取りの間抜けに取り仕切らせることで、ひどく間抜けに生みだしてしまうことのチャーミングさが、メリル・ストリープやおばさん特有の下品な笑い声といった本来苦手なものを越えてしまう。キレイに整ったモノなんかいらない、という意志のようなこのチャーミングさは好きだ。

それにしても、この映画で取り上げられている番組が現役だということに驚く。いつの時代の話しだよ、と思いながら観ていたら現在の話しだったことにさえ驚いたのに。懐が深いというかなんというか、いやはや。


@bunkamura ル・シネマ
2006年
監督:ロバート・アルトマン

2007年04月26日

爆音『June 12 1998 -カオスの縁-』

クリス・カトラー単独ライブビデオ、といったもの。
クリス・カトラー…
インプロの大御所、ですか?
その方面全然詳しくないので知らないのです。それでも「爆音」だし、このビデオを作るためにboidが生まれたというのだから、やっぱり観に行かなければと、のそのそと。
ライブ準備とインタビュー映像を交えた前半。セッティングされる物体の正体も何をどう調整しているのかも分からぬながら、子供が子供だけにしか分からない世界のルールでガラクタ達に役割を与えていく、あの感じに見えておもしろい。が、インタビューで語られる内容は(私には)高度すぎて、ほとんど理解できずに口を開けて成り行きに身を任せるバカ1人。
さあライブが始まりました後半。ひとり人力インプロ。
さっき並べていたモノたちと一緒になって音出ししてるような動き。ひとりインプロ、ひとりと愉快な仲間達インプロ。
当然『エリ、エリ、〜』での中原氏の手つきなども思い出すのだけれど、轟音の前に思考は拡散。
そう、私大抵意識飛んじゃうんです、この手の音。
轟音にごんごん体を打たれながら、意識は遙か彼方。彼方というより偏在か。音の1つ1つに意識の断片が乗っかっていって、そのままどっかに消えちゃうんですけど。

苦手なの、か?
それが気持ち良い、のか?

とか言いつつ、帰り際に物販で「ヘア・スタイリスティックス」買っちゃったよ。何だ、自分。好きなのか?苦手なのか?爆音インプロで判断力が麻痺したのか?帰って1枚聴きました。素敵。たぶん、クリス・カトラーもアルバムなどを聴き込んだ上で観た方がもっとよかったんだろうな。

ビデオ全体を通して、親密さと使命感があいまった面白さがありました。

@吉祥寺バウスシアター
1998年
監督:青山真治



おまけ↓

2007年02月24日

『グアンタナモ、僕達が見た真実』

半ドキュメンタリーというか、本人達の証言+再現V+その後(現在)の本人達という構成はテレビのワイドショーやバラエティ番組でよく見るようなものだが、描かれている内容はおそらくテレビではめったに見ることは出来ない、気が重くなる、何か良からぬものが背後に充満している、そんな気分を満喫できるものだ。

単なる若造たちがひょんな事から2年間も、あの悪名高きグアンタナモに拘留される。
グアンタナモに至るまでの展開も、劇映画なら「そんなあほな」と思うような無茶な展開だが、グアンタナモでの日々(=拷問)はなんで発狂せずに帰ってこられたのか不思議。強い、君たち強いよ。人間性の徹底的な剥奪。システムってこわいな。

再現部分に挟み込まれる当時のニュース映像などは、「単なる若造」を追う映像と初めから最後までかけ離れており、妄想のたわごとにしか聞こえない。まあ、もちろん特にブッシュ&ラムズがすごいわけだが。与えられる情報がどれだけ一面的なものか、どれだけ「大体の意味においてはそう」といった形で私達の元へ落ちてくるのかを1つのテーマにしていることは間違いないだろう。「アメリカ」という国家への告発よりもむしろ、観る者への啓発が主題か。

この事態、あの頃のアフガニスタン、そしてグアンタナモの実体を少しでも多くの人により分かりやすく伝えることを引き受けたというだけでこの映画の存在意義はあるし、そうした役割を引き受けた映画として、過剰すぎない描写が素直に映し出されることを吸収させ、なんらかの気持ち悪さを持ち帰らせることに成功している。

という前提で、しかし不満はある。
「事件」以前の彼らのイギリスでの映像が極端に少ないことが残念。証言してくれる本人達は、以前にはなかったヒゲを蓄えていることからの推測として、事件によってそれまでとは違ったアイデンティティを持ちはじめたようにも見えるので、それ以前の彼らがいかに単なる若造だったかを存分に見たかった。

「ROAD TO GUANTANAMO」という原題からすれば時系列で描かれるのが順当かも知れないが、欲を言えばグアンタナモから始まり、時系列を超えてそこに至る過程を見せてくれればと思うものの、それはあれか、『父親たちの星条旗』か。

あと、何かが足りないと思ったのだが、それはどうやら音だった。特にパキスタンシーンでのデコバスやリキシャが行き交う通りや市場、また爆撃や人の呻く声などもずいぶんと押さえられている気がした。グアンタナモの静けさや轟音の拷問と、彼らの世界の音、それがもっと聞こえればなあ。くどいようだがイギリスシーンにラップミュージックを聴いて騒いでるシーンとかあるとなあ、あとで効いてくるのだが…

音ついでに言えば、本人達が再びパキスタンに向かうラストのシーンは叙情的な音楽などではなく、現地の音をもっと聞きたかった。音で流されて、あ、まとめに入ったのね、て感じになってしまうけど、あの映像自体は力強いのだから、もっとナマで観たかった。

ずいぶん注文多いな。ドキュメンタリーとしても劇映画としても弱いという印象。
とはいえ、前提は覆しません。
ともあれアメリカはグアンタナモに収容している人間全員にきちんとした裁判を受けさせろ。

再現部分の役者達は本人達と比べてずいぶんかっこいいが(失礼)、名前はムスリム圏の名前。彼らもまたパキスタン系イギリス人なのだろうか?

この映画を観たあとには『不都合な真実』か『それでもボクはやってない』を観たくなる。どっちも未見。で、このあと観に行ったのは『マリー・アントワネット』でしたが。

2006年03月05日

『消えゆく者たちの年代記』1996

■『D.I.』のエリア・スレイマン監督の長編デビュー作をアラブ映画祭に観に行く。しかし実のところ『D.I.』は未見。パレスチナを舞台にしたパレスチナ人監督のコメディ映画、という点で絶対に観に行っているべきだったにもかかわらず、公開時にあっさりと見逃しそれっきりになっている『D.I.』も観に行くつもりではいるのだが、見逃した自分へのエクスキューズのような感じで本作も観に行った。

■長編(85分)とはいえ、イメージとショットと日常の断片の端々にごく分かりやすいコントがちりばめられているもので、ストーリーらしいものはない。また、一貫したメッセージというものもあるのかないのか分からない。つまるところ、よく分からない映画だった。目に見えるものをそのまま並べてみた、そんな感じ。
■だから中身については何とも言えず、おもしろくなかったのかというと、これまた微妙。目の前に拡がる光景がなぜか魅力的だったからだ。おそらくは、ほとんど動かないカメラと、そのカメラが切り取る構図の1つ1つが私の好みにあっていたんだろう。人によっては大したことなかったり、逆に決めすぎという印象も与えるのかもしれないけど。ただ、どのシーンが印象的かと言われるとまた困る。ずば抜けたシーンもまた無いような気がするから。
■キアロスタミ的な映画という視点から見ると明らかに物足りない。コメディと言うにはわかりにくすぎる。それでも色彩の絶妙なかわいらしさと、エリア・スレイマンのとぼけた真顔という点から、どうにもこの人はジャック・タチなんだなというところに到達。『D.I.』ではパレスチナのキートンの称号を得たらしいけれど、ここではどう見てもキートンではなくジャック・タチ。基本ぼんやりしてるし。部屋の格子越しに拳法の達人(?)の奇行をぼんやり見る、土産物屋の前にぼんやり座る、ハウリングの消えないマイクの前でぼんやりする。

■パレスチナという問題が避けられるわけでもなく、とりたてて騒ぐでもなく淡々と現れては消え現れては消えと繰り返すのは、おそらくイスラエルに住むパレスチナ人にとってのリアルな感覚なのではないかと思う。その渦中にいながらも日常生活を送るということはきっとそういうことなんだ。そういう諦念と闘争の決意とはぐらかしの入り交じり具合はやっぱりジャック・タチっぽい。
■ラストシーンにはテレビ放送の終わりでイスラエルの国旗が映し出され、国歌が流れる。つい最近『ミュンヘン』でも聴いたあの音楽が『ミュンヘン』とはまるで違う次元で現れることにちょっと衝撃を受ける。テレビ放送の終わりに国歌が流れるのはかつて日本でも普通にあった風景だが(今はどうなの?)、テレビの終わりに流れる国歌とは、何かを象徴するための意味を背負わされた音楽ではなく、単にその日の終わりを知らせるだけの1つのメロディと化してしまう。意味の剥奪。それはもはや闘争の対象ですらないということだろうか。つけっぱなしのテレビの前で、パレスチナ人の老夫婦はテレビを見疲れたのか、肘を付いて眠りこけたままだ。
■で、なぜそんな当たり前のことに衝撃を受けたのかと考えてみるに、イスラエルというものを政治的視点以外から見るという感覚をすっかり失っているからですね。色めがねというか、遠い国のことゆえに、自分のフィルターに会う情報しか脳に届かないというか。差別も闘争も確かにそこには存在している。けれどイスラエル内のパレスチナ人(少なくとも監督の両親)にとってそこは生活の場所である。「けれど」そこに流れるのは敵であり、権力者でもあるイスラエルのテレビ放送というねじれた感覚。監督にとっての故郷は「年老いた父と母」であってイスラエルでもパレスチナでもない、「ない」というより、そうなれなかったというほうが正しいだろうか。映画の最後にこのシーンを見せられ、断片となった日常、なにも意味を求められない全体の雰囲気がそのまま、要するに監督の撮りたかったことなんだろうかと思った。パレスチナ人であるべきかやめるべきかという劇中の監督自身の問いかけが、この映画そのものとして成立しているような。っていうのは深読みしすぎか履き違えか、どっちかかもしれないけど。

■つまるところ、まるでわからん。しかし、何か引っかかる。という映画だった。
■それと、劇中テレビに映された、腕を組んでぐだぐだなラインダンスのようなものを踊るコーラス隊の男達は、ふざけたことをきまじめなフリしてやっているといった雰囲気がどうしたってモンティ・パイソンに見えてしょうがなかった、というのはきっと私自身の問題だろう。いや、ヤツらが揃ってロンドンの役人みたいなコート着てるのがいけないんだ。そうだそうだ。

2006年01月16日

『恋多き女』1957

■毎回1人の画家を選んで好きな作品について書く、金井美恵子氏の新刊「スクラップ・ギャラリー」のルノアールの項を読めば、誰だってジャン・ルノアールの映画を観たくなるに決まってるし、一度でもジャンの色の豊かさと躍動に魅惑された人ならそれらのシーンを思い浮かべ、その生命感というか生命そのものが溢れるような色の洪水に浸りたくてたまらない気持ちになるはずだ。たぶん。
■そんなわけで未見だった今作。溺れ死ぬかと思った。そこには望む以上の色の洪水。

■銀の細工にひな菊とミニチュアのお祭り用の色とりどりの提灯が適度な感覚で配されている様に見える、可愛らしくて色合いも抜群なタイトルロールに始まり、革命記念日のパレードから夜のお祭りまでの間に溢れる色と色と色が廻り踊り飛び跳ねるのを、幸福感無しに観ることが可能だろうか?
■群衆の、鮮やかである以外に統一感の無い帽子や洋服が画面一杯に詰まって人混みに押され戻りつする。群衆が画面のこちら側を向いて一斉に笑いさざめく。夜の色とりどりの提灯の下で人々が踊り笑い飲む。それらの色とりどりのすべてが決してうるさくなく、それでいて弾けあっているようで、心を浮き立たせる。あの色彩の溢れ方は尋常じゃないし、あの生き生きとした楽しさが画面の中におとなしく収まっていることが不思議だ。

■18世紀末のブーランジェ事件を基にしてるせいか、歴史に疎い私にはやや分かりにくい話なのだけれど、そんなことはどうでもいい。話の筋などどうでもいい。最初の革命記念日のシーンを消化しているうちに話はどんどん進んでいってしまうのだし。
■とはいえ、ラストシーンは田舎の質素な服や警察の黒いスーツ、ジプシー達の色のくすんだ衣装に満たされているのに、変わらず豊壌の空気が満ちている。始まりは熱狂の鮮やかさ、終わりは陶酔による豊かさ。そのどちらもこれほど美しく、豊かに、しかも品よく描かれていることに驚き、それを観ることのできる幸福感に満ちてため息をつく。

■話が政治的でやや硬いわねと思いつつ観ていても、結局最後は「愛」ですべてが片づいてしまう。それが許されてしまうジャンの映画の豊かさは一体どうしたことだと考えてみてもしょうがなく、これまた、ただただそこに浸るしかない。為す術がない。

2006年01月02日

『キング・コング』

■インディ・ジョーンズ+ジュラシックパーク+スターシップトゥルーパーズ+エイリアン+……まだあるにちがいない。
■大晦日に鑑賞。2005年最後にふさわしい純大作娯楽映画でした。まさか3時間超えてるなんて観に行く直前まで知らなかったよ。ロード・オブ・ザ・リングのときも、ピーター・ジャクソン監督の体力というか精力絶倫というか、まあとにかく力の有り余っている感に圧倒されたけど、今作はそれを上回るものがあってもう唖然とするしかないのでした。唖然呆然面白かったよ。

■とにかくすべての突っ込みどころをスルーして、ただ目の前に現れるものを受け入れる。これがこの映画の正しい観方なんじゃないだろうか。一度クリアしたものはなぜ二度と出てこないのかとか、どうやってアレを運んだのかとか、そもそも壁の意味がないとか、いくら何でもあの原住民の表現はやばいんじゃないのかとか、と次から次へ沸き上がる突っ込みどころは、次から次へと現れる新アイテムによってすべてなぎ倒され、ただもう身を委ねるしかない。セリフも少ないので身を委ねることは比較的簡単だ。で、身を委ねると3時間があっという間に過ぎて、途中退屈することもなかったことに驚きつつエンドロールの長さに呆れる、ということになる。
■照明のあて方のせいか画面がぺたーっとしてるのが気になってしょうがないくらいだから、ピーター・ジャクソンは決して名作を撮るタイプではないと思うけど、これだけの膨大なエピソードと時間を破綻の無い娯楽作として中だるみもさせずに作り上げてしまう体力に感動せずにはいられない。この人の力持ちっぷりが本物であることをLOTR以上に見せつけられました。今後もピーター・ジャクソンの娯楽大作なら安心して観に行ける。

■傲慢さの固まりを演じさせたらジャック・ブラックぴかイチだ!すばらしい。
■恐竜おしくらまんじゅうはおもしろかった。
■ヒロインは要するにタバコの箱(大きさ比較用)なのだな、と恐竜対コングのシーンで納得。
■それでもナオミ・ワッツの無言の泣き顔はとても素敵だ。ラスト数十分、ほとんどセリフがないのがとてもよい。

■非常な長尺と流れに乗る姿勢が必要なため、余計な誘惑や邪魔を排除してくれる映画館で観ることをオススメします。おもしろいよ。

追記
■他のブログの感想などを見ると、感動したという人や、CGばっかりで交流が描けてないという人などいろいろですねー。
長い!というのには同感だけど(笑
私としてはこれに感動的要素を一切期待していなかったからこそ面白く観れたのかも。半分呆れながらもあれよあれよと押し流される感じだから、その流れに乗れないとほんとキツイだろうな。ただ「キングコング」という映画にそれ以上のものは期待しないので、期待するだけのものはこれまた呆れるほどに提供していただいた、ということだ。

2005年12月30日

『コープス・ブライド』

■チョコレート工場と2本立てで観たのでした。
■全体の出来上がりとしてはこっちの方が好きかも。テンポがよい。
■ウェディングドレスが美しすぎてすごい。犬がかわいい。
■あんまり言うことないな。ただ面白かった。
■つくづく、ティム・バートンという人の心の優しさ、ナイーブさというものを感じないわけにはいかない。私がなによりも好きな『フランケン・ウィニー』では、直球に『フランケンシュタイン』の悲しい結末を否定してみせてくれたし、常にこの人はおとぎ話的ハッピーエンドを望んでいる。『シザーハンズ』のように悲しい結末もあるけれど、たいていの場合は完全懲悪、善人は報われる。でもそれもいいじゃないって思わせてくれるのがこの監督のすごいところなんだな。

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