2008年03月18日

『ダジ急』補

青山真治監督の日記(3/16日付)に書かれている「映画というのはたとえそれがボール紙であろうと実在するものの運動の記録のほうを向いているのであって、意味を還元させるために二次的に捏造されたものには無意味が足りない」と「ウェス・アンダーソンやタランティーノの真に映画的な魅力」という文を読んで(このタランティーノは当然「デス・プルーフ」の、ということだと思う)、青山さんが繰り返し日記の中でも書いている「活劇」や「アクション」という言葉がぽんっと実体を持って出てきた。

例に挙げられる映画を観ていなかったり脳みそが辿り着けなかったりで、今まではどうにもよく分からなかったそれらの言葉が(勝手な解釈ではあるけれど)、つまるところエイドリアン・ブロディの走る姿になって目の前に現れた、と思えるんだけどどうなんだろう。

そう考えると、あのスローモーションがどうしようもなく魅力的な理由が少し腑に落ちる。というか、自分の中で言葉にならなかったことに道筋を立ててもらえたというか。純粋な運動の記録としてのスロー。意味づけはなく、感情や物語の展開とも関係のない、映すべきものとしての運動を、より効果的に見せるためのスロー。

何の必然もないのに、不可欠で絶対的に思えるスローモーションは、それが映画だからこそ存在できるってことなんだろうか。

だから、私がつい「いままでに観たことのあるどんなスローモーションとも似て非なるもの」と書いてしまったのはつい勢いがついた、というか「自分が」と頭に入れるべきなのは当然だし、例が出てこないのは自分の怠惰のせいなのであって、その数行前に自分で書いているとおり、それはもちろん「映画」には存在し得るものなんだろう。

あのシーンにありとあらゆる意味をつけることもできるし、感傷的な解釈もできるし、でももしかしたらあのシーンは単にブロディの走る姿が妙にきれいだったからスローにしちゃったってことでも当然ありだ。いや、逆に意味がありながらもまるでそれ単体の瞬間のように存在していることがすごいのか。ぐるぐる。
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