2008年01月18日

『アトミック・カフェ』

神様の言葉を聞いているから俺たちは決して間違えないぜベイベー
爆風が来たら物陰にさっと隠れるんだぜベイベー
どんなことだって心構えさえあれば平気なんだぜベイベー
…てか。

膨大な膨大な膨大な量の資料映像を数年にわたって見続け、それらをまた数年かけて再編集するという、忍耐力とか根気とか、そういうんじゃなくて、それはやっぱり一種のパラノイアだ、としか私には理解できない情熱でもって作られたこの映画は、「再編集」によって、元の意味が解体され、359°彼方の意味へと生まれ変わっている。
なんて、そんなことは佐藤真氏の『ドキュメンタリーの地平』にすばらしく魅惑的に書かれているのだけれど、やっとのことでそれを自分の目で確認できて、そしてやっぱりその意味の新生のあまりのきわどさに唖然としてしまった。

原爆・水爆開発推進のプロパガンダ映像を中心にしながら、一言の新しい言葉も付け加えないままに、本来の目的とはまるで違った意味を持たせているけれど、もしかしたらこれは原爆推進派にも受けてしまうのではないかとふと不安になる。そうした不愉快な誤解とほんの1線画したところで展開しているからこそ生まれるすさまじい批評性なのだけれど。
とはいえ、同じ土俵に上がってしまっては、もはや単なる揚げ足取りの応酬で議論にすらならないということはままあるだろうに、この映画はあえて敵の土俵に上がって敵のふんどし締めながら、そうしたむなしい言い争いとは一線を画している。その薄皮一枚のきわどさが、くどいようだが本当にすごい。

この映画を見て、アメリカにおける冷戦時代の大衆への情報操作・洗脳の怖さを噛みしめるのは当然。でも、それらの内容の愚かさを笑って済ませられないのも当然。
それらの情報操作は今も、当然日本でも、継続しているし、あらゆるワイドショーやバラエティ番組、「討論番組」的なものの中で、さもそれらしい顔をして問題視している態度を見せつつ、本当に考えなければいけないことから巧妙に論点をずらしている、などということは当然のこととして受け止めなければならないんだ。
そんなことに常に意識的になっているわけにもいかない、私達には日々の生活があるのだし、日々の楽しみもあるのだから。そしてまさしく「常に意識してはいられない」ことのもたらす何かに何やら胃の辺りが冷え冷えしてしまう。

ていうかね、
1回見ただけじゃ情報量が多すぎて処理できない。観念的にじゃなく、この映画の中に映っているものをただきちんと「見る」ためには何度か観ないとダメだな。簡単にこれを整理整頓しちゃだめだ。

ともかく脳味噌にひどく刺激的な映画。


@渋谷シネセゾン
監督:ケヴィン・ラファティ
   ピアース・ラファティ
   ジェーン・ローダー
1982年
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