2006年11月26日

民芸か円空か

東京国立博物館(=東博)の仏像展。入場制限するほどの人気ぶり、ってみんな何をそんなに期待しているのだ?、と人のことは言えないが。
私の狙いはなんといっても『見仏記2』でMJ+いとうせいこうを「ダイナマイトセクシー!」と唸らせた渡岸寺の十一面観音と、顔が割れている京都西住寺の宝誌和尚像。
いや、堪能しました。十一面観音は後ろ姿がヤバイ。私が男子ならむしゃぶりつきたくなる腰つき。煩悩の固まりが作り上げたとしか思えない天女的腰つき。むーん、これはいったい何なのだ。
その他の仏達もまあ面白い方たちいっぱいいました。どうして仏像って面白くなってしまいがちなんですかね。ひどく美形かおもしろいか、そんな仏たちばかり記憶に残ってるというだけか。

そう言いながら、今回の最大の収穫は円空の仏像達を生で見たこと。荒削りで素朴な円空仏は、写真で見る限り民芸品店に売ってるおみやげにしか見えないものだったのだけど、実際に見たら何かが違っていた。常にほほえみをたたえ、木であることを前面に打ち出した作りはむしろ技巧を排した分、信仰対象としての側面が強く打ち出されて息苦しいものなのではないかという懸念もはずれた。
なんかイイ。
それ以上の表現ができねえな。
あえて言うなら、巨木の前に立った時や山に登ったときに感じる感覚か。圧倒的なものへの畏怖と内包される安心感。それを信仰に結びつける人もいるだろうけど、信仰にしなくてもいい、そういった自由度を持つ、ただそこにあるもの。個人的な感覚だけど、数少ない山登りのたびに山に守られている気持ちになる、その感覚の源がそこに形になって現れているような気がした。信仰するかしないかとは別に、ただほほえみがそこにあるんだよと、形になっているもの。

だからといって民芸品と円空とりまぜて置かれたら見分けられるだろうか。自信はない。自信はないけど、円空は民芸品じゃなかった。

ところで、仏像展の広告のキャッチフレーズにはのけぞる。「白州正子、井上靖、土門拳、みうらじゅんの愛した仏像達」(うろ覚え)て、そこにみうらじゅんが入るのかー!てね、ついにMJが白州正子と並んじゃったという。チケット買えなくて行けなかったけど、見仏コンビのトークショーもやってるし、東博すごい。「伊藤若沖と江戸絵画」の変化照明もすばらしかったし、私の中で東博ファン度がどんどん上昇している。

ミイラも常設展示されてるしね。
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