2006年01月18日

『忘れじの面影』1948

■切なさにため息、美しさにため息、つつましさにため息、情熱にため息。何がこんなに切ないのか、何がこんなに美しさを感じさせるのか。映画全体から匂い立ってくるものが観ているこちらの周りの空気まで支配していきそうな、それもあからさまではなく、密やかに、いつのまにか、その匂いが染みわたっているような感覚。

■話自体は女の控えめすぎる態度に歯がゆくなるようなものだが、それにも関わらずあまりに純粋に恋をする彼女の心の切なさが映画全体に満ちていて、それに陶酔するばかりだった。ドアの脇で見つめる彼女、雪の路地でたたずむ彼女、彼と踊る公園、ピアノを弾く彼を見上げるまなざし、ついに彼と2人で彼の部屋に入る彼女、苦しみ、決意し、絶望する彼女、その表情の1つ1つすべてが印象深い。少女、18才、29才と年齢を変化させ、その年齢ごとのまなざしと変わらない情熱を見せる表情は見事としか言えない!1人の女性が少女時代からずっと1人の男性を恋し続けてきたことを、その表情で表し尽くしてしまっているのだから。

■当時30才くらいのジョーン・フォンテインの演じる少女時代は、さすがに頬の痩けが違和感無いとは言えない感じなのだけど、憧れの人の部屋に忍び込むときの軽やかでしなやかな裸足の足の動きはどう考えても少女のもの。

■この映画をどうにもこうにも素敵なものにしているのは、口のきけない(耳は聞こえる)ピアニストの執事の存在があるんじゃないだろうか。この執事はまるで「天使」だ。「天使」とは『ベルリン・天使の詩』の「天使」、すべてを知りながら歴史に介入することなく生きていく存在。彼は少女のジョーンが自分の主人に恋をしていることも、大人になった彼女も10年後の彼女も、その少女だとわかっていて、そっとほほえみながら見守っていたのだ。そうでありながら何も行動を起こさなかったのは、もちろん彼が「執事」だからなのだが、言葉を発せずほほえむという行為が彼に「天使」性を与えているように思える。
■最後に彼女の名前を書いて主人に差し出すという行為は「天使」からの逸脱というより、「天使」ゆえに名前を与えることによって哀れな男のこころを救ったように思える。そうすると「天使」はカッコなしの天使になってしまうのだけど。

■そんな面倒くさいことを考えなくても、この映画は切なくて美しいと言い切るだけでも良い。ただそれ以上の何かがあってその何かを知覚したい。いや、でも、とにかく「美しい」と言える映画です。
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