2005年07月06日

『Dreamers』2003(爆音)

■爆音で見ていい映画。爆音4作品でコレを最後に持ってきたのはやられた。爆音で聴いて脳みそシャッフルされる映画、爆音で作り替えられる映画、爆音で脳みそぼわー映画と来て、最後はただただ爆音が気持ちいい映画だった。

■ベルトリッチ作品は『リトルブッダ』以降の作品から『ドリーマーズ』まで10年分のベルトリッチを1本も観ていないし『1900』だって観ていない私が生意気に言うならば、『ドリーマーズ』の子どもらしい無邪気さとまっすぐさ、映画を愛おしむ率直さにみずみずしさを感じ『革命前夜』を思い出す。あれら大作を撮ったあとのベルトリッチが再びこんな映画をを撮りえたことになんだか感動すらしてしまう。その愛情の表出がストレートで単純なものであればあるだけに。

■ラストシーン、警官隊に火炎瓶を持って挑もうとする2人にマシューは「間違ってる」と叫ぶ。愛で解決すべきだと。ベトナム徴兵を逃れるため(らしい)にフランスへ留学しているアメリカ人、実際に行動しろと部屋で理論ずくめになっている弟テオに言い、あるいは毛主義は多数のエキストラを生み出すのみだというマシュー。異空間、異文化を背負わされた登場人物かと思っていたが、実際には異時間の存在なのだではないだろうか。姉弟との対話の中で出てくるマシューの視点はその時代のものではなく、むしろ後生、その「当時」の結末を知っている人間が持つものの様に思える。異なる時間の人間、そう気づいた瞬間に、マシューは身を翻して去る。その時、顔に現れる絶望感は単に思想の違いではなく、決して交わることの出来ない隔絶感、異なる時間に対する無力さを思わせた。無力を突きつけられ、その空間(時間)から消え去ることしか残されなかったあの顔にいきなり涙がでた。あまりにもかなしい、絶対的な隔絶。交わることを初めから否定されている存在と空間。

■ところで、もしかしたらこの映画の主題なのかもしれない3人の愛の関係は、私には2次的なものでしかなかった。近親相姦の2人は「映画を愛する」ことを体現するためにそこにいた。完全に外界から遮断されても良いほどに2人の間で世界が完結しているゆえに、ただひたすらに映画を愛することができる2人。そして、その時代を私たちに伝えるために遣わされた異時間の人物。実際の所、3人の関係性とか「愛」などはすべて何かを代弁しているものの様にしか見えなかったし、それでよかった。

■で、本当のところを言うと、私がこの映画をこんなふうにおもしろいと思ったのは「爆音」だったからなのではないかという気がしている。爆音でかかる当時のロックに気持ちよく揺さぶられているうちに勝手に映画が進み、ラストのマシューの表情で我に返ったのかもしれない。我に返った私の前でマシューが去っていくと、警官隊はスローモーションで画面をはずれていき、観ていたものが「映画」でしかなかった事を私に知らせて終わる。ネット上でみた評判はやたらに悪かったが、悪いと言われているところはこの映画にとって重要ではないような気がした。たとえ監督自身が「3人の愛」がこの映画の主軸だと言い張っても、わたしにとってこれは監督の映画への愛、あるいは、映画を愛するということへの愛を見せつけられる映画だった。そんなふうにあらゆるものが気にならなかったのは「爆音」マジック、か?

■でも、J.P.レオーの使い方はちょっとせつない。
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