2010年05月31日

『ノン、あるいは支配の空しい栄光』

次々と繰り出される歴史劇の、実景ながらもどこか書割りっぽい感じが繰り広げられたかと思えば、白鳥がツルをくわえた貝のゴンドラに乗った女神が歌いだしたりと、油断ならない奇妙な味わいと歴史劇の衣装や馬のすばらしさの混在に、何となくロメールやシュミットを思い出したりしながら、やはり頭の隅で奇妙な映画だきみょうきみょうと呪文がループする。

ましてその劇中劇を呼び寄せる語り手は、植民地でゲリラと戦うために前線へと移動中の小隊の隊長で、聞き手は隊員。トラックで小銃を抱えながら、休憩時に缶詰を食べながらのその語りの光景は、もはや移動教室以外の何物にも見えないな、非戦闘の戦争映画かなどと油断したら最後の最後に戦闘シーン。彼らが急に兵士だったことを思い出させる訓練された動きを見せる瞬間はなんだか胸を衝かれた。

ほんの数分の戦闘シーンが、決定的になにかを変えてしまうことにおろおろする。

病院で横たわる無言の彼らが重体の小隊長を気遣っているのが、その視線で察せられる。いつのまにか自分も「移動教室」の生徒の一人として、小隊長を慕っていたことにそのときに初めて気がついて愕然とした。奇妙奇妙とつぶやいていたはずの自分がなにゆえ、これほどまでに慕う人を失う予感に取り乱すのか。

こうした心のつながりを見せてくれた「戦争映画」は見たことないなあと思い、このつながりをあっさりと失わせるものはノンだよ、ノン、と思った。病院の包帯ぐるぐる巻きなんてもはやギャグにしか見えないのに、奇妙で不思議なのに、なんなんだこの映画。

私ごときは、やっぱりオリヴェイラすげえ、とつぶやくことしか結局のところはできないのです。
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